「全体性」を思い出すことのみ。
これだけが、癒し。
部分的、という意識から離れるには、部分的だと思い込んでいた意識をただ見て、それが消えていくにまかせる。
「ただ、助けを求める者と自分が一体であることを認識するだけである」(4:6)
これだけ。
すべてが源だという確信。
・・・
祈りの歌
第三章 癒し
Ⅲ.分離 対 融合
偽りの癒しは肉体を部分的に癒すが、決してその全体を癒すことはない。
このことにおいて、偽りの癒しがもつさまざまに異なるゴールがきわめて明確になる。
こうした癒しは、肉体の上に横たわる罪の呪いをまだ取り除いていないからである。
したがって、それは依然として欺くものである。
また、それは他者が自分自身と全く同じであると理解している者によって為されることはない。
というのも、真の癒しを可能にするのは、この理解だからである。
癒しが偽りのものであるときには、相手だけがもっている何らかの力が想定されており、それは一なるものとしての両者に平等に授けられている力ではない。
ここに、分離が示されている。
そしてここでは、真の癒しの意味が失われており、偶像たちが現れて、神の子そのものである一体性を覆い隠している。
「分離するための癒し」というのは、奇妙な概念のように思えるかもしれない。
それでも、あらゆる種類の非対等性に基づくあらゆる形の癒しを、そのように呼ぶことができる。
これらの形が肉体を癒すことはあり、実際のところ、通常、それだけに限られている。
誰かのほうがよく知っている、よく訓練されている、おそらくもっと才能があり、賢い。
それゆえに、彼は自分の保護下で自分より下に立つ者に対し、癒しを授けることができる、ということになる。
肉体の癒しがこのようにして行える理由は、夢の中では、対等性は永続するものではないからである。
移行や変化が、夢を作り上げている素材である。
癒されるということが、自分よりも賢くて、手腕と学識により癒しを成し遂げることのできる者を見つけ出すことであるかのように見えている。
「誰かのほうがよく知っている」ー これが、肉体を、世界が考えている通りの癒しの対象のように見せている魔術的な言葉である。
そして、この賢者のところへもう一人の者が出かけていき、賢者の学識と技術から恩恵を受ける。
彼の中に痛みの治療法を見つけるのである。
どうしてこのようなことがあり得るだろう。
真の癒しは、想定された後に真理として受け入れられた非対等性から生じることはできず、傷ついた者たちの回復を助けることや、疑念の苦悩に苦しむ心を鎮めることに使われる非対等性から生じることもあり得ない。
それならば、人が他者を助けるために使えるような癒しの役割というものがあるだろうか。
傲慢さにおいては、答えは「否」でしかあり得ない。
しかし、謙虚さにおいては、もちろん助力者に役目はある。
それは、祈りにおいて助けになる役割や、赦しを本来意図された通りのものとならしめる役割にも似ている。
あなたは自分を、癒しをもたらせる特別な才能の持ち主とはしない。
ただ、助けを求める者と自分が一体であることを認識するだけである。
なぜなら、この一体性の中で、彼の分離の感覚だけが一掃されるからであり、彼を病気にしていたのはこの分離の感覚だからである。
病気の源が存在している場所から離れたところに治療法を与えることには意味がない。
なぜなら、決してそのようにしてそれが真に癒されることはないからである。
治療者たちは存在する。
彼らは、自分の源を認識している神の子らであり、自分の源が創造するすべてが自分とひとつであると理解している者たちである。
これが、失敗することのあり得ない回復をもたらす治療法である。
それは永遠に祝福するためにとどまる。
それは部分を癒すことはしないが、全体を永遠に癒す。
今や、すべての疾病の原因が、厳密にありのままに明らかにされた。
そして、その場所に、今では、神聖な神の言葉が書かれている。
病気と分離は、愛と融合によって癒されなければならない。
他の何も、神が定めた通りの癒しを行うことはできない。
神なくしては、癒しもない。
そこには、愛がないからである。
神の声のみが、どのようにして癒すのかをあなたに教えることができる。
耳を澄ましなさい。
そうすれば、神があなたのもとに送る者たちに神の優しい治療法をもたらすことにおいても、また、癒しの名において、神に仕えるすべての者たちを祝福することにおいても、あなたは決して失敗しないだろう。
その原因が消え去ったので、肉体の癒しが起こる。
そして今では、原因がなくなったので、それが別の形で戻ってくることもできない。
死も、理解されたがゆえに、もはや恐れられることはない。
真に癒された者の中に恐れはない。
なぜなら、かつて数々の偶像が立っていたところに、今、愛が入ってきて、恐れはついに神に道を譲ったからである。