奇跡講座のテキスト、ワークブック、マニュアル、は慈愛そのもの。
「自我」に居すわるをやめて、「実相」の心眼をとりもどしてくれる。
この世界に気を取られ、泣き叫んでいたら、コースは歪曲されてしまう。
コースをこの世界に持ち込もうとしてしまう。
でも、そうすると、とたんに苦しい。
そして「わからなさ」に立ち返る。
自我の世界をただ置いておくようになる。
自我の電源が外れると、少しずつ、静かになっていく。
そうして、静かな心でのコースは、もうそれがそのままわたしたちの本当の住処。
そこへ流れていくままに。
くつろぐままに。
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見渡すと、いろんな方が、「実相」へのプロセスを書いておられる。
今回からは、そんな方々の本を、丁寧に、もう一度、なぞっていきたくなった。
まずは、ポール・フェリーニさんのLove Without Conditions。
邦題は「無条件の愛~キリスト意識を鏡として~」
「愛」はそもそも無条件だ。
だから、”無条件である「愛」”という言い回しの方がすっきりするかもしれないなぁ。
ま、でも、どちらにせよ、行き着くのは、無条件である「愛」。
また、いつものごとく、書物を書き写しながら、気づきをつづっていきたいと思う。
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「まえがき」で、すでにパワフル。
徹底した「対等性」。
それは個人というアイデンティティを放棄させていきます。
「抵抗」をやめて、放棄すればするほど、恍惚と喜びにあふれます。
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著者まえがき
チャネリングが花盛りだが、本書がチャネリング・ブックでないことをはっきりさせておくことが大切だと思う。
本書の情報は、どこかの「エンティティ」や、聞き手の人格の一部を分離させたような存在からやってきたのではない。
そうではなく本書は、ひとりの聞き手が、あなたもわたしもその重要な一部である”キリストの心”とひとつになった結果である。
イエスと自分の心の外部の独立した存在だと考えると大切な点を見失う。
イエスが話しかけるのは、あなたの心の中においてだからである。
イエスはもっとも親しい友として、ときには言葉で、しばしば言葉を超えて、あなたに語りかける。
イエスとの交流、霊的交わりは、その教えを実践するためには欠かすことのできぬ部分だ。
ただしイエスは、”キリストの心”の中で特権的な地位や場所を占めているのではない、ということをはっきりさせておきたい。
クリシュナ、ブッダ、モーゼ、老子、その他もろもろの聖人が意識体として、そこで、というかもっと正確にいえばここで、イエスに合流している。
ブッダやクリシュナと話すほうが落ち着けるというなら、どうかそうしてほしい。
イエスは気を悪くなさらないだろうと思う。
いや、むしろ喜ばれるはずだ。
あなたは、非ー分離というイエスの教えに従っているわけだから。
われわれはみな、この”キリストの心”(ブッダの心でも、ブラフマンでも、聖霊でもなんでもよいが)と交流し、交わりをもっている。
それはわれわれがみな”神の心”とひとつになっているからだ。
もしそうでなければ、われわれの経験はまったく暗黒のものとなり、回復の希望さえ見いだせないだろう。
各人は、自分の無意識の闇を照らす小さな花火をもっている。
それは神とのつながりを保たせている聖なる意識の火花だ。
この火花はわれわれを、各自の伝統の中の聖なる教師とも結びつけ、兄弟姉妹の中にある聖性とも結びつける。
イエスが本書で指摘しておられるように、ひとりびとりの中にある火花を見ることさえできれば、われわれの感じたり経験したりするすべての闇は溶け去り、いま知っているような世界は消え去るだろう。
愛がわれわれのハートの中に、そして兄弟姉妹のハートの中に打ちたてられるからである。
”キリストの心”を体現するいかなる存在であれ、心とハートの中に愛の王国を打ちたてる以外のことを求めているわけではない。
そもそも、それこそが唯一無二の目的である。
マハヴェールはそれを目ざした。
聖フランシスコもそれを目ざした。
バール・シェム・トブもそれを目ざした。
ルーミーもそれを目ざした。
さまざまな宗教への分化は、この世界の過去の遺物といえる。
こうした境界は”キリストの心”の中には存在していないし、そこではただひとつの目的のために、すべての存在が一堂に会している。
想像するのはむずかしいかもしれないが、そのとおりなのだ。
ユダヤ教あるいはキリスト教の伝統の中に育ったものなら、必ずイエスの生涯や教えにふれているだろう。
さらに言えば無神論者、不可知論者にもあてはまる。
ユダヤ教徒は、イエスが新しくもたらした信仰を理解し、受け入れる必要がある。
そしてキリスト教徒は、イエスの愛とゆるしの教えが、いかに恐怖心と罪悪感によってゆがめられてきたかを理解する必要がある。
イエスを拒否するもの、あるいは台座にのせてまつりあげるものは、どちらも彼の教えを誤解している。
だからこそ、だれもがそれを修正しなければならない。
イエスはそれぞれに、罪悪感を溶かし去り、恐怖心の中から抜け出す特別のメッセージを伝えてくれる。
キリスト教というようなものはないからである。
キリスト教といえば、それは分離の神話になる。
イエスがそんな考えを唱道するとお思いだろうか。
とんでもない。
イエスに従うのもは、いかなる分離をも唱道しない。
イエスは、自分自身をもふくむすべての存在に対して、愛とゆるしを実践した。
ユダヤ教徒、イスラム教徒、ヒンズー教徒を兄弟として受け入れた。
人を改宗させようとはせず、その信仰に深く根をおろすようにさせた。
別の道を選ぶものは、救済を拒まれるとも信じていなかった。
イエスの真の真奉者は、神は故郷への多くの道を備えておられると知っているので、その結果については心配しない。
だれでも個人的にイエスと交わりをもつことができる。
この関係は、こちらが欲し、信頼していればひとりでに始まるものだ。
そこにはテクノロジーも、仰々しい祈りも、秘教的な修行も必要ない。
イエスの友情と導きを求めるシンプルかつ真正な願望があれば、それだけでよい。
イエスご自身が、われわれに権威者として君臨しようとしたのではない、ということを明らかにしておこう。
イエスは、神以外のあらゆる権威に反対したからである。
ただ対等なものとして自分の手をとるように、そして同じような相互信頼と対等な意識をもって兄弟姉妹に手をさしのべるように、と言われた。
イエスの教えは簡潔かもしれないが、それを実践するには、あらんかぎりの注意、あらんかぎりのエネルギー、全的な自己投入が必要となる。
すべての人と対等に出会う経験をすること、あらゆる過ちを意識下して、さらにそれをゆるすことは、革命的な教えである。
それはわれわれの罪悪感を洗い流し、恐怖心の暗闇を通りぬけさせる。
わたしはこの執筆計画にかかりはじめて、前の本のときと同じくらいの自己放棄をあけわたしと経験した。
しかし、それでも十分ではなかったかもしれない。
静かに省みれば、わたしは使えそうな素材を百五十ページぶんほど切り捨てたと思う。
それは、人生のこの時期に生み出すべき本ではなかったのだ。
何か新しいものが、わたしに対して求められていた。
そしてわたしも、わが師に対して、何か新しいものを求めていた。
わたしが求めていたものは、イエスとその教えに対して、こちらがどうかかわっていくべきかを明らかにしてくれるような、簡潔で見通しのよい書物だった。
そしてしだいに明らかになったのだが、わたしがそのような本を書きたいと願ううちに、わたし、つまりポール的なものが、わきにのけられる必要があることがわかった。
ポール的アイデンティティを洗いなおしてみる必要があった。
その信念体系、語彙を解体し、再構成する必要があった。
他人との分け隔てを感じさせるような考えを粉砕する必要があった。
こうしたことがなければ、本書は生まれなかったろう。
このプロセスを通じて、わたしはイエスについて書物で知った知識よりも、イエス自身との関係に重きをおくようになった。
わたしとはちがう信仰をもっているような多くの人々の生活の中で、イエスが生き生きとはたらいておられるのも見た。
信念体系は人々をたがいに分け隔てる。
愛の思いは結びつける。
「もしわたしの教えに従おうと思うなら、ひとつひとつの思いについても、そうしなさい。たとえ兄弟の考えに同意できないとしても、相手を祝福しなさい」これがつねにイエスの教えだった。
イエスはいま、それをさらに広い領域へと拡大しつつあるのだった。
本書をイエスと”キリストの心”から流れださせることによって、わたしの生活全般に調整が起きた。
文章のスタイルや執筆のプロセスにはさほど変化がなかったが、信念体系に根本的な変化が起きた。
「分離感を起こさせるような観念」を除去することが、わたしの日々のスピリチュアルな実習となった。
それが完璧にできたなぞとは、とうてい言えない。
だが、その実習、およびこの本には深く感謝している。
なぜなら両方があいまって、わたしのスピリチュアルな成長の中でのひじょうに難しい一歩を進めてくれたからだ。
本書があなたにも、自己赦免と非ー分離という、簡潔だが深い体験をさせてくれて、その結果あなたの人生が変わることをわたしは願っている。
このふたつこそは、イエスが地上での生涯で達成された仕事である。
そしてそれは毎瞬、毎瞬、生きてゆくなかで、われわれが手をさしのばしてイエスの助けを乞い求めるときに、イエスが勧めるやりかたでもある。
最終的に人間の苦しみが終わるのは、もう苦しみはたくさんだとわれわれが合意したときである。
各人はそれぞれの生涯において、もっとよいやりかたを模索しはじめている。
そんなときに、イエスがいまわれわれを見捨てると、あなたはお思いだろうか。
あなたのハート、あたしのハートの中にともった、せっかくの小さな火花がしぼんで弱々しくなり、恐怖心、罪悪感、苦痛の犠牲になってしまうと思うだろうか。
そんなことはありえない。
イエス、クリシュナ、ブッダ、そして次元上昇したすべてのマスターは、たったひとつの祈りをささげれば、その中でわれわれをとりまいてくれる。
その祈りは、われわれのハートの中の火花をおだやかに養い育て、恐怖心と羞恥の意識から完璧に抜け出すのを助けてくれる。
また経験のなかで窮屈にこりかたまってしまった信念や条件づけを、聖なる啓示の光で照らしだしてくれるだろう。
なぜなら、その光は我々の中にあるもので、呼びかけがなければ輝かないわけにはいかないからだ。
キリストの光は、われわれすべての中にある。
それを、ともに呼びおこそうではないか。
愛の名において。
1993年12月
ポール・フェリーニ