【奇跡のコース】Humming

ACIM lesson&diary

レッスン109 異邦人

ワークブック レッスン109


私は神の内に安らう。


あなたは今日、自分が信頼するものに忠実になるだろう。

(8:2)


・・・・・


小さい頃、鉄棒で逆上がりが出来なかったし、かけっこも遅かったです。


勉強も興味あるものとないものがあり、興味ないものは特に苦痛でした。


競争は嫌いでした。


勝ったらもちろんその時は嬉しかったと思いますが、あまり勝つことはありませんでした。


いろんな遊びは楽しかったです。


ピアノを弾くことも楽しかったです。


絵を描くことは当たり前のことでした。


ですが、身体の中にいる違和感はずっとありました。


全般的にやはり肉体であることが苦手でしたし、そんなに嬉しいとは感じてはいませんでした。


だけど、あまりに周りから浮いて、ひとりでいることも恥ずかしく感じていて、どうにか誤魔化しながらなんらかに所属しておりました。


まわりと比べて、劣っていることを恥じていましたし、責めていましたし、勝手に憎悪しておりました。


そして、この悪循環のフィーリングをカモフラージュして生きてきました。


長年の違和感の理由が、コースの学習により、明かされていった時、愕然と致しました。


全ては分離のシナリオで自作自演だったのです。


あゝ、そうか、違和感を感じることは自然なことだったのだ、と真から安堵しました。


もう、内側の確かさ、自然な感覚、を偽って、無理したり、嘘ついたり、我慢したりしなくていいのだとわかって、ホッとしました。


散々自分も他人も世界も責めて、攻撃してきたんだなーと泣けてきました。


まだまだ、肉体が自分だという凄まじいほどの思考が抜けたわけでなく、あらゆる形の動揺が次々と現れていっております。


今は物理時間の夢の中を、この誤解の解除と聖霊の働きのレッスンのために使っています。


「なかったことをなかったと認める」という赦しのレッスン。


分離を願う前の純粋な全一。


この移行期間を与えられたことに感謝しております。


神の内に休らいます。

レッスン108 和解と安らぎ

ワークブック レッスン108

 

与えることと受け取ることは、真理においてはひとつである。

 

真の心眼を可能にする真の光は、肉体の目が見る光ではない。

それは、すっかり統合されているためにまったく闇が知覚されることのない心の状態のことである。

そうして、同じであるものはひとつのものと見られ、同じでないものは存在しないので、顧みられることはない。(2:1~3)

 

これが、対立するものを見ることのない光であり、すでに癒されている心眼には、癒す力がある。

これが、あなたの心の平安をほかの心へと運ぶ光である。

(3:1.2)

 

私は今自分が与えるものを、これから受け取ることになる。

(8:3)

 

・・・・・

 

コースの学習を深めていくと「違っていたい」という分離の心があったことに氣がついていきます。

 

「違っていたい」の動機がまさか「罪悪感」だとは思いもしませんでしたが、

 

聖霊と共に見ていくことで、

 

隠されていた動機が明らかになっていきました。

 

「罪悪感」が必要ないのであれば、「違っていたい」という意識も必要はなくなっていきます。

 

自我は消滅することにものすごい抵抗をして、

 

どうにか生き残ろうとしておりましたが、

 

「違っていたい」ためには、”裁き続ける”こともセットになっていますので、

 

もう”裁き続ける””はかりごとを続ける””競う”ということにはほとほと疲れましたので、

 

全部を聖霊に委ねる意欲をもつことにしたのです。

 

そうすることで見えてきたのは、

 

私が私の夢を攻撃していただけだ・・・・・ということでした。

 

なんということでしょう。


世界はなかった。


私ひとりだったのです。


恐れは幻想、分離も幻想です。

 

なんとシンプルな構図でしょうか。

 

そしてだからこそ難しかったです。

 

原因が消えれば結果も消えます。

 

与えることと受け取ることが同じです。

 

なんて単純なレッスンでしょうか。

 

そうして創造されたままの私たちが在るのです。

 

今日も聖霊と共に。

レッスン107 夢から覚める

ワークブック レッスン107

 

真理は、私の心の中のすべての誤りを訂正する。

 

誤りは、信じられなければ、生命をもたないので、ただ消えてしまう。(1:5)

 

幻想がなければ恐れはなく、疑いも攻撃もない。

真理が訪れたとき、あなたの心には移り変わる想念や生命なき概念が残る余地はないので、すべての苦痛がなくなっている。(3:2.3)

 

真理が訪れるとき、その翼の中に抱いてくるのは、完璧な恒常性という贈り物と、苦痛に直面してもひるまずそれを超えたところを確信をもってじっと見続ける愛である。

(5:1)

 

私たちは、自分がもっていないものを求めるのではない。

自分のものを、自分のものと認識できるように、自分に属するものを求めているだけである。(7:1.2)

 

まずこれを行うときあなたとともに行く聖なる存在に、一緒に歩む道すがらその存在をあなたが自覚していられるようにしてほしい、と頼むことから始めよう。

あなたは、骨と血と肉でできているのではなく、その存在に生命の贈り物を与えた想念とまったく同じ想念によって創造された。(8:1.2)

 

今日はあなたの機能を忘れてはならない。

「真理は私の心の中のすべての誤りを正す」と自信をもって言うたびに、あなたは全世界を代弁して語り、あなた自身を自由にすると同時にこの世界を解放しょうとする存在を代弁して語っているのである。(11:1.2)

 

・・・・・

 

「赦し」の実践とは、

 

出会う出来事の中で動揺すること、反応すること、問題だと感じることなどをすべて、

 

とにかくつぶさに「起きなかったこと」として赦すために、

 

聖霊に預けていく。

 

私の心が「分離」を選んだのです。

 

その「投影」が世界を作っています。

 

このことへの本気の認識が、

 

「赦し」を本物に育んでいきます。

 

たった一瞬で、

 

あんなに滞っていたものが、

 

一気に流れていきました。

 

そしてわかりやすい奇跡のしるしとして、

 

左肩のつまりがフッと消えました。

 

 私のライフワークは「赦し」そのものだけです。

 

正気の心に還るだけです。

レッスン106 誤解が解けるとき

ワークブック レッスン106

 

私が静まって、真理に耳を傾けられますように。

 

もしあなたが、自我がいかに大声で呼びかけてくるように思えてもその声に耳を貸さず、あなたが本当にほしいものは何一つ与えてはくれない自我のつまらぬ贈り物を受け入れず、救済とは何かをあなたに教えてはくれなかった心を空にしてよく聞こうとすれば、あなたには力強い真理の声が聞こえてくるだろう。

その声は、力に満ちた静けさをたたえ、静けさの中で強さに溢れ、自らが与えるメッセージを完全に確信している。

(1:1)

 

私は静かにして、真理に耳を傾ける。

与え、受け取るというのは、何を意味しているのだろうか。(7:5.6)

 

そう尋ねてから、答えを予期して待つ。

あなたの求めていた答えは、長い間あなたに受け取られるのを待っていた答えである。

そうしてあなたはここで果たすべき聖なる任務を開始し、「与えることは、失うことである」という考え方から、この世界を解放するだろう。

そのようにして世界は、理解して受け取る準備が整う。

 

・・・・・

 

この世界に対して違和感だらけだけど、それでも仲間外れは辛い、、、

 

ひとりぼっちは怖い、、、と思い込み、

 

なんとか「カタチ」だけでも揃えて、この世界の仲間として認められようとしているうちに、

 

いつの間にか、迷い込むほど複雑な思考を作り上げて、

 

幻の世界に「意味」や「力」をもたせて、

 

いつの間にか、自分がつけた「意味」や「力」にコントロールされてしまっていたんですね。

 

必死になり外に繋がり続けていくことへの不自然さに疲れていましたが、

 

それでも、幻の世界の中に答えがあると思い込み、

 

あらゆる手を尽くしてきました。

 

そして本気の絶望と強制終了が起きたのでした。

 

幻の世界の「意味」や「力」が消えていきました。

 

ひとりぼっち、というのも幻想でした。

 

それは私たちの思考では及びもつかない大いなる自己でした。

 

大いなる自己に導かれるままに、

 

ふいに無風、無音の状態を体験することで、

 

これまでの自我の構造がゆっくりと明らかになっていき、

 

「意味」や「力」をもたせていた自我の虚構が、

 

ただただ駄々をこね、闇雲に怖がっていた可愛く小さく怯えていた信念の塊に過ぎなかったのだという原初の思いを思い出しました。

 

そして、その可愛く小さく怯えた塊がそっと抱きあげられました。

 

ひとりぼっちでも孤独でもなかったのだという揺るぎない一致感の体験でした。

 

間違えようのない確かさでした。

 

どこにも行く必要もないし、

 

何かを探す必要もないし、

 

何者にもなる必要はありませんでした。

 

私たちが呼吸をする前からある確かさが最初からあったのでした。

 

実相だけがあったのです。

レッスン105 狂乱の世界

ワークブック レッスン105

 

神の平安と喜びは私のものである。

 

真に与えるとは、すでに完全である全体に対して与えることであり、単に何かを何かにつけ加えるといった意味合いの「加えること」ではない。

何かがつけ加えられるのだとしたら、加える前はもっと少なかったことになるからである。

真に与えるということは、自ら溢れ出るのを抑えきれないものに、その目的を全うさせることにより、加えるということである。

すなわち、自分がもっているすべてを与え放つことによって、すべてを永遠に自らのために確保するという目的が成就されるのである。

(4:4.5)

 

今日は決して神が意志することを妨げないと決心しなさい。

そしてもし兄弟が、神の贈り物を彼に対し拒否するようにあなたを誘惑しているかに見えるときは、その状況をあなたが神の贈り物を自分のものとして受け取るための新たなチャンスとして捉えよう。

それから兄弟を感謝の気持ちで祝福し、このように言おう。

 

私の兄弟であるあなたに、平安と喜びを差し出します。

それにより、私も神の平安と喜びを自分のものにすることができます。

(9:4~6)

 

・・・・・

 

”与えたら無くなる”と思い込んでいるのは「カタチ」に囚われている「自我」の世界でのことなので、

 

その「自我」が私たちでないのであれば、

 

もうすでに十分に与えられていると思い出すだけだったのです。

 

この人には与えて、あの人には与えない、ということは自我の世界でのみ成立することであり、

 

本当の私たちすべての人が、最初からすべてを与えられております。

 

ただその事実とつながるだけだということなのです。

 

そうしますと、

 

誰の事も、

 

「あの人は特別」

「あの人は持ってない」

「あの人はすごい」

「あの人は可哀そう」

「あの人は私がいないとダメ」

 

などなどの「欠乏」の投影をしなくなります。

 

”すべてが一なる存在であり祝福されています。”

 

という聖霊のまなざしに委ねる意欲だけでよかったのです。

 

「裁く」という自我の役割がなくなることが、

 

自我にとっては死活問題なので、

 

必死にいろんなアラさがしをしようとしますが、

 

その誘惑もすべて、聖霊の元にさらけ出し続けます。

 

最初は地味で根気も必要ですが・・・。

 

そのうち、

 

裁きに忙しかった「自我」が静まるにつれて、

 

いかに今まで狂っていたのかが実感できるようになり、

 

もう狂乱の自我ワールドから自然に身を引くようになります。

 

平安の只中へと誘われることへの抵抗をやめていきます。

 

レッスン104 障害物が取り除かれていく

ワークブック レッスン104

 

私は真に属するものだけを求める。

 

私たちは今日、神の贈り物が置かれるべき聖なる祭壇の上に自分でおいてしまった、無意味な自作の贈り物をすべて、取り除こうとする。

神からの贈り物は、真に私たちのものである。

神からの贈り物こそが、時間が存在する以前に私たちが継承したものであり、それらは時間が永遠の中へと過ぎ去ったときも私たちのものであり続ける。

神からの贈り物に時間はないので、それらは今も私たちの中に存在する。

だから私たちは、それらを手に入れるために待つ必要はない。

それらは、今日、私たちのものである。

(2:1~5)

 

・・・・・

 

もし本当に属するものだけでいいのなら、

何を感じるだろう。

 

もしこれまでの自我の世界が錯覚なら、

何を感じるだろう。

 

真に属するものだけでいいという言葉に安心します。

 

それ以外のものは、もう手放していいということ。

 

無理したり嘘ついたり誤魔化したりしなくていい。

 

自分の自我をただじっと見つめ、聖霊に明け渡して、沈黙していていい。

 

正直に顕わしてしまうことで消えていく。

 

そしてようやく、

 

兄弟とひとつなのだと思い出しはじめている。

 

自我の声にかき消されてきたけど、

 

静けさが深まることで、

 

すべてはひとつなのだと思い出しはじめている。

 

何とも変えられない安らぎ。

 

祈りのある心が幸せ。

レッスン103 心地よさに素直になる

ワークブック レッスン103

 

神は愛なのだから、幸福でもある。

 

・・・・・

 

本当の「心地よさ」をゆるしはじめますと、

 

「心地よさ」をじっくりと静かになって観察するようになってきました。

 

やはり、

 

思考が騒がしくなくて、

 

あーだこーだと分析しては裁く「防衛」状態の中が特に心地ちよくありません。

 

そしてそんな時は「不自然さ」の中に居ることに氣づいて、速やかに退けるようになってきました。

 

胃が重いのも心地よくないので、重くなる前に飲食をやめます。

 

気持ちが焦っている時は目を瞑ってゆっくりしてみます。

 

風が気持ち好い時は氣が済むまで風を感じます。

 

何かに興味が湧いたなら、氣が済むまで教えてもらおうと思います。

 

「心地よさ」は聖霊に委ねている時です。