【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

茶道とか、いろいろ・・・

茶道を習って、気づいて、再確信し、さらに日常に還元したことは、すべてを「同じ」に扱う、ということでした。

 

所作、態度において、上げも下げもしない、優劣つけない、”私情”のない姿勢。

 

すべて「対等」、なぜなら、その出どころは「実相」という源泉だから。

 

でも、一方、そのお茶の真髄を教えるはずの習い事の現場では、微妙な「上下」関係がありました。(苦笑)

 

それが自我ですもんね・・・(笑)。

 

これも「正見」、「正気」に戻る機会でしたが、でもお免除制度やらに息が詰まり、わずらわしくなり習い事はやめちゃいました・・・。

 

だけど、「お点前」、「作法」は、もうずっと、これからも好きです。

 

ただただ没我でき、気持ちいいです。

 

「茶道」にて「静寂」「愛」を顕す。

 

「同じ」「対等性」「無我」の生じ。

 

ありがたや。

 

・・・

 

「奇跡講座」も、ありがたや。

 

・・・

 

「気づきメモ」の感想や意見など、いつでもお待ちしてます。

 

また、こちらでも日常を通した気づきを書いています。よろしくお願いします。

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茂藤かおり

 

 ★ ZOOM オープンハート瞑想会 毎週月曜・21時~ ★ →●

 

ZOOMにて、毎週月曜の夜9時からだいたい15分くらいの瞑想です。

ぜひ一緒にいかがですか?

 

※ぐっすり眠れるって定評です^^。

 

・どなたでも参加できます。

・参加費 無料です。

 

🆔 540 951 0958

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感想やご質問など、気軽にお待ちしてます。

わかち合えたら嬉しいです。

 

お茶が好き

今、「奇跡講座」の”メモ”は止まっちゃってます・・・。

 

なんかもう、充分すぎて、なんの必要もわいてこない感じです。

 

ただ、お茶を飲むひとときでも、完全さに完結しちゃう。

 

利休さんが、茶道をどんどん簡素化していった感覚がわかるような気がします。

 

そこにあるものがすでに実在、実相、愛そのもの。

 

だから、竹の花瓶や無骨で自然発生の作為のない茶碗、とても狭い茶室・・・。

 

そんな感じになっていくのですね。

 

もうね、、、どちらにせよ、大丈夫なんですもん。

 

愛しかない。

 

「ま、お茶でも」

 

その気楽さは神意識。

 

それでも、そのうち、またこちらにて、なにかしら発信を再開するかもしれません。

 

ですが、今はアメブロのみでつらつらと発信しています。

 

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【Zoom オープンハート瞑想の会】 について

【ZOOMにて誘導瞑想&シェア会・毎週、夜9時から開催しています。】

(誘導瞑想タイムは15分~・その後のシェア会は、お話のキリのよいところまで~)

・・・

 

*Night オープンハート瞑想*

 

おやすみ前に・・・。

 

わたしたちが、「今ここ」・”本来在るところ”に戻り、その共鳴を広げるひととき。

 

そして、日常の中で揺さぶられた感情感覚なども、丁寧に、優しく労り、慈しむのひととき。


「考えること」を「感じること」→「在る」へと橋渡し。

 

「動揺」から、「癒し」へ。

 

「わたし」から「全体」へ。

 

・・

 

等身大のまま、オープンなまま、気楽に、ご参加ください〜。

 

顔出ししても、しなくてもどちらでもOKです。

・・・

※ 毎週月曜日21時から~(瞑想15分くらい、シェア会はだいたい1時間くらい)

※ 参加費は無料です。

※ 顔出ししても、しなくてもどちらでもOKです。

※ 「オープンハート瞑想の会」の急な変更、お休み、気づきのコラムをグーグルメーリングにて、お届けしています。よろしければ、kuzira826@yahoo.co.jp に、ご登録 できるアドレスをお知らせください。

 

① 9時からだいたい15分の誘導瞑想。

② ①終了後、フリートーク&シェア会。

みなさんのインスピレーション、ご都合に応じて、①だけ参加、②まで参加(②も、顔出しせず、聞き流し参加OK)・・・自由にどうぞ。

 

 YouTubeにて、【オープンハート誘導瞑想】公開してます。→●

 

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*Night オープンハート瞑想の参加方法 ↓

 

毎週21時になったら以下のリンクに入ってください。

 

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祈りの歌 第三章 癒し Ⅳ.癒しのもつ聖性

最初から癒されていたのだったと受け入れます。

 

また、自分の言葉は必要なかったことに、深く癒やされます。

 

何もかもが対等なので、共通言語は静寂。

 

その全てそのものの中。

 

わたしたちの何もかもが癒しそのもの。

 

すみやかに赦し、祈りの中でくつろぎ、明け渡されて癒しの延長そのものの中です。

 

・・・

第三章 癒し 

 

Ⅳ.癒しのもつ聖性

 

癒された者たちは、何と神聖であることだろう!

彼らの視界においては、彼らの癒しと愛を兄弟たちが共有している。

平安をもたらす者たちーすなわち、神の声である聖霊が神を代弁して語るときに聖霊の声となる者たちーこのような存在が、神の治療者たちである。

彼らはただ神のみを代弁して語り、決して自分自身のためには語らない。

彼らは、神からのものではない贈り物はもっていない。

そして、これらのものを彼らは共有する。

なぜなら、彼らは、それが神が望むことだと知っているからである。

彼らは特別ではない。

神聖である。

彼らは聖性を選択し、分離した夢の数々をすべて手放した者たちである。

それらの夢とは、彼ら自身よりも不遇な者たちに非対等な贈り物を授けることを可能にしていた特別な属性についての夢であった。

彼らは赦すことができ、祈りの歌に加わることができる。

その歌の中では、癒された者たちが自分たちの融合と神への感謝をうたっている。

 

赦しの証しとして、そして祈りを援助するものとして、また、真に教えられた慈悲がもたらす結果として、癒しは祝福である。

そして世界はにわかに口を揃えて、祈りの声でそれに答える。

赦しは、草の葉や、翼のあるものや、地上の生きとし生けるものすべての上に輝き、慈悲深い慰めのひとときをもたらす。

ここに恐れの隠れ家はない。

聖なる一体性に包まれた愛が訪れたからである。

時間はただ、世界が輝きのうちに消え去るとき、祈りの最後の抱擁を一瞬の間、地上にとどまらせるためにのみ残っている。

この瞬間が、すべての真の治療者たちのゴールであり、それは、キリストの似姿を見てキリストのように教えよと、キリストから教えられた者たちのゴールである。

 

キリストが癒すのを助けるというのは、どのような意味か、考えてみなさい!

これ以上に神聖なものがあるだろうか。

神は、神の治療者たちに感謝している。

なぜなら、癒しの原因は神ご自身であり、ご自身の愛であり、また、ご自身の完成として回復した神の子であり、また、ご自身の被造物の聖なる歓喜を共有するために戻ってきた神の子であることを、神は知っているからである。

部分的な癒しを求めてはならない。

また、神を思い出す代わりに偶像を受け入れてはならない。

神の愛は決して変化したことはなく、これからも変化することはない。

あなたは神の被造物全体と同じく神にとって大切である。

なぜなら、その全体が神の永遠の贈り物としてあなたの中にとどまっているからである。

哀れな世界の中で千変万化する夢が、あなたに必要なものだろうか。

神の感謝を忘れてはならない。

祈りの聖なる恩寵を忘れてはならない。

神の子の赦しを忘れてはならない。

 

あなたはまず最初に赦し、それから祈り、そして癒される。

あなたの祈りは昇っていき、神に呼びかけた。

神は聞き、そして、答える。

あなたはすでに、自分は自分自身のために赦し、祈るにすぎないということを理解した。

そしてこの理解において、あなたは癒される。

祈りの中で、あなたは自分の源とひとつになったのであり、そうして、自分はそこから一度も離れたことがなかったと理解したのである。

このレベルの達成は、あなたがひそかに抱く憎しみがなくなり、神の子を攻撃したいという欲求もなくなるまでは、不可能である。

 

決して次のことを忘れてはならない。

神の子である者とはあなたのことである。

そして、あなたが彼に対してどのような者であることを選択するかに応じて、あなたは自分自身に対しても、神に対しても、その通りの者となる。

また、あなたの裁きも、神に届かずにはいない。

なぜなら、あなたは神の被造物の中にあなたが見る役割を神にも付与するからである。

間違った選択をするのはやめなさい。

さもなければあなたは、神ではなく自分が創造主であると思い、そうなると、神はもはや原因ではなく、単なる一つの結果だということになる。

今や、癒しは不可能となる。

神があなたの欺瞞と罪悪ゆえに責められるからである。

愛そのものである存在が、恐れの源になる。

なぜなら、今では、恐れしか正当なものとなり得ないからである。

復讐の神のすることとなる。

神を破壊する大いなるものが、死であるということになる。

そして、病気、苦しみ、嘆かわしい損失が、地上のすべての者の身の上となり、地上はもはやそれを救わないと誓った神に見捨てられて、悪魔の保護下に置かれた場所となる。

 

私の子供たちよ、そのように歪んだ想念を胸に抱かずに、もう一度、私のもとにきなさい。

あなたは今もなお神聖である。

完全な無罪性の中であなたを生み出し、今もあなたを平安の腕で包んでいる聖性が、あなたと共にある。

今、癒しの夢を見なさい。

それから起き上がって、すべての夢を永遠に手放しなさい。

あなたは父の愛する者であり、自分の家から一度も離れたことのない者である。

また、あなたは、自分の中の真理である愛に逆らって頑なになった思い胸と血のにじむ足で、過酷な世界をさまよってこともない者である。

あなたのすべての夢をキリストに渡してしまいなさい。

そして彼を癒しへの導き手とならせなさい。

彼は祈りによって、この世界が囲む哀れな領域を超えたところへと、あなたを導きだろう。

 

彼は私に代わって訪れ、私の言葉をあなたに語る。

私は、疲れ果てたわが子を、悪意の夢から私のもとへ呼び戻し、久遠の愛と完全なる平安の優しい抱擁の中へと迎え入れようとしている。

私の腕は、愛するわが子に向って開かれている。

その彼は、自分が癒されていることを理解していない。

また、自分の祈りが、愛の聖性の中で、喜びあふれる感謝の歌を全被造物と共に斉唱するのをやめたことは一度もないということも、理解していない。

一瞬の間、静まりなさい。

厳しく辛い努力と敗北のざわめきの背後に、あなたに向って私のことを語る声がある。

これを一瞬の間、聞きなさい。

そうすれば、あなたは癒されるだろう。

これを一瞬の間、聞きなさい。

そうすれば、あなたは救われている。

 

天罰の夢から私の子供たちを目覚めさせるために、私を手伝ってほしい。

それは、恐れに苛まれる小さな生命についての夢であり、たちまちのうちに終わってしまうので、一度も存在しなかったも同然である。

その代わりに、私があなたに永遠を思い出させよう。

その中では、あなたの愛が私の愛と共に無限の彼方へと延長していくにつれて、あなたの喜びもさらに大きくなっていく。

そこでは時間や距離には何の意味もない。

あなたが悲しみの中で待つ間、天国のメロディーは未完である。

なぜなら、あなたの歌は愛の永遠なるハーモニーの一部だからである。

あなたがいなければ、創造は成就されていない。

わが子から一度も離れたことのない私のもとへ戻りなさい。

耳を澄ましなさい。

私の子供たちよ、あなたの父があなたを呼んでいる。

愛への呼びかけを聞くのを拒否してはならない。

キリストに対し、彼自身のものを拒んではならない。

天国はここにあり、天国があなたの家である。

 

創造は、時間の柵を超えていき、世界から大きな重荷を取り除く。

軽やかな胸で、その到来に挨拶しなさい。

影が柔和さの中で消えていくのを見なさい。

聖なる神の子である彼の血のにじんだ額から、茨がそっとすべり落ちるのを見なさい。

聖性の子であるあなたは、何と麗しいことだろう!

何と私に似ていることだろう!

どれほどの愛を込めて、私はあなたを私の胸と腕に抱きしめることだろう。

あなたが与えた贈り物の一つひとつが、私には何と愛しく思えることだろう。

あなたは私の子を癒し、彼を十字架から降ろしたのである。

立ち上がって、私が与える感謝を受け取りなさい。

そして私の感謝と共に、まずはじめに赦しの贈り物が訪れ、次に永遠の平安が訪れるだろう。

 

だから今、あなたの聖なる声を私に返しなさい。

祈りの歌は、あなたなしでは黙したままである。

この宇宙があなたの解放を待っている。

それは宇宙自体の解放だからである。

宇宙とあなた自身に対して親切でありなさい。

そして、それから私にも親切でありなさい。

私があなたに求めるのは、ただ、あなたが慰められ、これ以上、恐怖と苦痛の中で生きることがなくなることである。

愛を捨て去ってはならない。

次のことを覚えておきなさい。

あなたが自分自身と世界について何を考えていようとも、あなたの父はあなたを必要としている。

そして、あなたがついに平安を抱いて父のもとに戻るまで、父はあなたを呼び続けるであろう。

 

祈りの歌 祈りの歌 第三章 癒し Ⅲ.分離 対 融合

「全体性」を思い出すことのみ。

 

これだけが、癒し。

 

部分的、という意識から離れるには、部分的だと思い込んでいた意識をただ見て、それが消えていくにまかせる。

 

「ただ、助けを求める者と自分が一体であることを認識するだけである」(4:6)

 

これだけ。

 

すべてが源だという確信。

 

・・・

祈りの歌 

第三章 癒し

 

Ⅲ.分離 対 融合

 

偽りの癒しは肉体を部分的に癒すが、決してその全体を癒すことはない。

このことにおいて、偽りの癒しがもつさまざまに異なるゴールがきわめて明確になる。

こうした癒しは、肉体の上に横たわる罪の呪いをまだ取り除いていないからである。

したがって、それは依然として欺くものである。

また、それは他者が自分自身と全く同じであると理解している者によって為されることはない。

というのも、真の癒しを可能にするのは、この理解だからである。

癒しが偽りのものであるときには、相手だけがもっている何らかの力が想定されており、それは一なるものとしての両者に平等に授けられている力ではない。

ここに、分離が示されている。

そしてここでは、真の癒しの意味が失われており、偶像たちが現れて、神の子そのものである一体性を覆い隠している。

 

「分離するための癒し」というのは、奇妙な概念のように思えるかもしれない。

それでも、あらゆる種類の非対等性に基づくあらゆる形の癒しを、そのように呼ぶことができる。

これらの形が肉体を癒すことはあり、実際のところ、通常、それだけに限られている。

誰かのほうがよく知っている、よく訓練されている、おそらくもっと才能があり、賢い。

それゆえに、彼は自分の保護下で自分より下に立つ者に対し、癒しを授けることができる、ということになる。

肉体の癒しがこのようにして行える理由は、夢の中では、対等性は永続するものではないからである。

移行や変化が、夢を作り上げている素材である。

癒されるということが、自分よりも賢くて、手腕と学識により癒しを成し遂げることのできる者を見つけ出すことであるかのように見えている。

 

「誰かのほうがよく知っている」ー これが、肉体を、世界が考えている通りの癒しの対象のように見せている魔術的な言葉である。

そして、この賢者のところへもう一人の者が出かけていき、賢者の学識と技術から恩恵を受ける。

彼の中に痛みの治療法を見つけるのである。

どうしてこのようなことがあり得るだろう。

真の癒しは、想定された後に真理として受け入れられた非対等性から生じることはできず、傷ついた者たちの回復を助けることや、疑念の苦悩に苦しむ心を鎮めることに使われる非対等性から生じることもあり得ない。

 

それならば、人が他者を助けるために使えるような癒しの役割というものがあるだろうか。

傲慢さにおいては、答えは「否」でしかあり得ない。

しかし、謙虚さにおいては、もちろん助力者に役目はある。

それは、祈りにおいて助けになる役割や、赦しを本来意図された通りのものとならしめる役割にも似ている。

あなたは自分を、癒しをもたらせる特別な才能の持ち主とはしない。

ただ、助けを求める者と自分が一体であることを認識するだけである。

なぜなら、この一体性の中で、彼の分離の感覚だけが一掃されるからであり、彼を病気にしていたのはこの分離の感覚だからである。

病気の源が存在している場所から離れたところに治療法を与えることには意味がない。

なぜなら、決してそのようにしてそれが真に癒されることはないからである。

 

治療者たちは存在する。

彼らは、自分の源を認識している神の子らであり、自分の源が創造するすべてが自分とひとつであると理解している者たちである。

これが、失敗することのあり得ない回復をもたらす治療法である。

それは永遠に祝福するためにとどまる。

それは部分を癒すことはしないが、全体を永遠に癒す。

今や、すべての疾病の原因が、厳密にありのままに明らかにされた。

そして、その場所に、今では、神聖な神の言葉が書かれている。

病気と分離は、愛と融合によって癒されなければならない。

他の何も、神が定めた通りの癒しを行うことはできない。

神なくしては、癒しもない。

そこには、愛がないからである。

 

神の声のみが、どのようにして癒すのかをあなたに教えることができる。

耳を澄ましなさい。

そうすれば、神があなたのもとに送る者たちに神の優しい治療法をもたらすことにおいても、また、癒しの名において、神に仕えるすべての者たちを祝福することにおいても、あなたは決して失敗しないだろう。

その原因が消え去ったので、肉体の癒しが起こる。

そして今では、原因がなくなったので、それが別の形で戻ってくることもできない。

死も、理解されたがゆえに、もはや恐れられることはない。

真に癒された者の中に恐れはない。

なぜなら、かつて数々の偶像が立っていたところに、今、愛が入ってきて、恐れはついに神に道を譲ったからである。

祈りの歌 第三章 癒し Ⅱ.偽りの癒し 対 真の癒し

「死」が「罪」とセットになっている強い強い信。

 

「死」を罰ゲームの最終地点に置くことで、ずっと罰ゲームの夢を見続けている。

 

「死」を忌むものと見ることで、この世界の夢から逃れないようにしている。

 

この不毛で楽しくないゲームを下りよう。

 

「死」はわたしたちが信じているようなものではない。

 

その信念を全体にゆだねよう。

 

そして、そこから感じる感覚に素直でいよう。

 

永遠を感じよう。

 

 

・・・

祈りの歌 

第三章 癒し 

 

Ⅱ.偽りの癒し 対 真の癒し

 

偽りの癒しは、単に、一つの幻想を「より良い」幻想に取り替えるという不毛な交換をするだけである。

病気の夢を、健康の夢に取り替えるだけである。

こうしたことは、祈りの低次の諸形態において起こることがあり、そうした形態は、善意はあってもまだ完全に理解されていない赦しと組み合わさっている。

偽りの癒しのみが、恐れに屈することがあり得るため、病気の再発が可能になる。

偽りの癒しでも、もちろん痛みと病気の形を取り除くことはできる。

しかし、その原因が存続しているため、結果が無くなることはない。

原因は依然として、「死にたい、キリストを打ち負かしたい」という願望である。

そして、この願望があれば、死は確実である。

なぜなら、祈りは叶うものだからである。

だが、それとは別の起源をもつ種類の、死のように見えるものがある。

それは、傷つける想念や宇宙に対する荒れ狂う怒りのゆえに生じるものではない。

それは単に、肉体の機能の有用性に終わりがきたことを示すだけのものである。

それゆえに、人が着古した衣服を脱ぎ捨てるように、肉体は一つの選択として廃棄される。

 

これが、死の然るべき姿である。

それは静かな選択であり、神へと向う道すがら、肉体が神の子を助けるために優しく使われてきたがゆえに、喜んで、安らかに下される選択である。

そのとき私たちは、肉体に対し、それが提供してくれた働きのすべてについて感謝する。

しかし私たちはまた、制限だらけの世界を歩む必要がなくなったことにも感謝し、隠された形のキリストや、せいぜい一瞬の麗しい閃光の中にしか鮮明に見ることができないキリストに到達しようとする必要がなくなったことにも、感謝する。

今や、私たちには、視覚をさえぎるものはなく、私たちが再び目を向けるようになった光の中に、キリストを見ることができる。

 

それを私たちは死と呼んでいるが、実はそれは自由そのものである。

それは、嫌がる肉体に苦痛と共に押しつけられるかに見える形で訪れるのではなく、解放をやさしく迎え入れるものとして訪れる。

真の癒しが起こっていた場合には、このような形で死が訪れることが可能である。

そこでは死は、喜んで為されて喜んで終えられた労働からしばし休息する時がきたときに訪れるものである。

今や、私たちは平安のうちに、より自由な空気と、より温和な風土のあるところへ行くのであり、そこでは、私たちが与えた贈り物が私たちのために保存されていたということを見るのは難しくない。

なぜなら、キリストは今、以前よりもはっきり見えるからである。

彼の心眼は、私たちの中で以前よりもしっかりと維持されており。彼の声、すなわち神の声は、以前よりも確実に、私たち自身のものとなっている。

 

より高次の祈りへと向かうこの柔和な移行、すなわちこの地上のやり方を優しく赦すことへの移行は、感謝の中でのみ受け取ることができる。

だが、それにはまず最初に、真の癒しがすでに訪れて心を祝福し、心が夢を見て世界の上に置いていた罪を、優しく赦していたはずである。

今や、心の見ていた夢の数々が、静かな休息の中で一掃される。

今や、その心による赦しが世界を癒すために訪れており、旅は終わり、レッスンが学ばれたので、その心には安らかに去る用意ができている。

 

これは、この世界によれば、死ではない。

なぜなら、世界の怯えた目には死は残酷なものであり、罪に対する処罰という形で表れるからである。

そうだとすれば、それがどうして祝福であり得るだろう。

そして、それが恐れられなければならないときに、どうしてそれを歓迎することなどできるだろう。

単なる高次の祈りと柔和な正義の執行へと門を開くだけのものについて、このような見方をしているなら、いったいどんな癒しが起こったと言えるだろう。

死は報奨であって、処罰ではない。

しかし、このような見解は、世界には思いもつかないような癒しによって、培われなければならない。

部分的な癒しというものはない。

幻想を幻想へと変化されるだけのものは、何もしていない。

虚偽であるものが部分的に真実であることはできない。

もしあなたが癒されているのであれば、あなたの癒しは完全である。

赦しのみが、あなたが与え、受け取る唯一の贈り物である。

 

偽りの癒しは肉体の治療の上に成り立っている。

それゆえに、それは依然として病の原因を変えずにおくので、病の勝利であるかに見える残酷な死がもたらされるまでの間、いつでも病は再発可能である。

死はしばらくの間は遠ざけておけるし、それが神の子に復讐しようと待ち構えている間、つかの間の休止期間がある場合もある。

だが、死を克服することは、死に対する信のすべてが放棄され、邪悪な夢の代わりに神による代替に信が置かれるようになるまでは不可能である。

そして、その代替とは、そこを暗く慰めのないものにしておくための罪のベールが存在しない世界である。

そのときついに、天国の門は開かれ、神の子は自由に、彼を歓迎しようと待っている家の中へと入っていく。

それは、時間が生じる以前から準備が整っており、今もただ彼を待っている家である。

祈りの歌 第三章 癒し 序 Ⅰ.病気の原因

はかなさを、はかなさのまんま受け入れて、それが看過されるまんまにしよう。

 

癒しとは、この世界の影が去ることの表現。

 

癒しが起こるままに。

 

ただ受け入れたい。

 

・・

 

何もかも、わたしが捏造した夢でした。

 

その捏造にてじぶんを追い込んできました。

 

そんな辛いことはさっさとやめて、癒しのくつろぎを共有します。

 

・・・

 

祈りの歌

 

第三章 癒し

 

 

祈りには援助と証しの両方が伴い、それらが険しい上昇を、より優しく確かなものとし、恐れの苦痛を和らげ、慰めや、希望を差し出してくれる。

赦しを証しし、祈りを援助するもの、そして最後には必ずうまくゴールが達成されるという安心感を与えるものは、癒しである。

その重要性は、過度に強調されるべきものではない。

なぜなら、癒しとは、赦しの強さのしるし、またはその象徴であり、祈りのゴールについて心が変化したことの一つの結果であり、影であるにすぎないからである。

 

Ⅰ.病気の原因

 

結果を原因と取り間違えてはならない。

また、病気を、その原因でるはずのものから分離した別のものと考えてもいけない。

病気とは、一つのしるしであり、この世界の使用法によれば実在性があって公平であるように見える邪悪な想念の影である。

内的な「罪」の外的な証拠であり、神の子を痛めつけ、傷つけようとするもの、赦そうとしない想念の証しである。

肉体を癒すというのは不可能なことであり、このことは、つかの間しか持続しないというその「治療」の性質により示されている。

肉体はやはり死すべきものであり、したがって肉体の癒しとは、塵から生まれて塵に帰るものである肉体が、そこに帰るのを遅らせるだけのものである。

 

肉体を生じさせた原因は、神の子が抱いた赦そうとしない思いである。

それはその源を離れていない。

そして、肉体の痛みや老いや、肉体に押されたしの刻印に、このことがはっきり示されている。

自分の生命が肉体からの指令に操られ、その不安定でわずかな呼吸へとつなぎとめられていると考えている者たちには、肉体は恐ろしくて脆弱なものに見える。

掴み取ろうとする両手をすり抜けていき二度と戻らない一瞬一瞬の中で、死が彼らを睨みつけており、彼らがそこにとどまることはできない。

そして肉体が変化し、病んでいくにつれ、彼らは恐れを抱く。

自分の胸に重苦しい死の匂いを感じるからである。

 

肉体が真の赦しの結果として癒されることはあり得る。

真の赦しのみが不滅性を思い出させることができ、不滅性とは聖性と愛の贈り物である。

赦しを与える心が理解していなければならないことは、キリストの聖なる顔にかかる影のすべてが看過されねばならないということである。

そして、病気とは、それらの影の一つとして見られるべきものである。

それ以外のものではない。

すなわち、ひとりの兄弟からもうひとりの兄弟に対して為された裁きのしるしであり、神の子が自分自身に与えた裁きのしるしである。

というのも、彼は自分の肉体を牢獄として呪ったからであり、さらに、自分でその役目を肉体に与えたということを忘れてしまったからである。

 

彼がしたことを、今、神の子は取り消さなければならない。

しかし、ひとりでそれを行うのではない。

なぜなら、彼はその牢獄の鍵を投げ捨ててしまったからである。

そしてその鍵とは、自分の聖なる無罪性と父の愛の記憶であった。

だが、父が彼の中に置いた声において、彼に助けが与えられている。

癒す力が、今、彼の父からの贈り物となっている。

なぜなら、神はご自身の声を通して今でもわが子に達することができるからであり、肉体が彼の選んだ家となることはあっても、決して真理における彼の家とはならないということを、彼に思い出されるからである。

 

したがって、真の癒しと偽りの癒しが区別されなければならない。

相対立するものでできている世界が、癒しの場所である。

天国には癒すものなどないからである。

この世界においては、祈りが誤った求め方とすることがあり、慈愛のように見えるものが殺すために赦すことがあるのと同様に、癒しもまた、偽物にも本物にもなり得る。

すなわち、世界の力の証しにも、絶えざる神の愛の証しにもなり得るのである。