【奇跡講座】 気づきの記録 ~Humming~

「欠乏」の幻想から目覚めると、「愛」そのものが私たちでした。

四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか Ⅸ. 信義

一は、全部。

 

静かな確信。

 

すべてが喜び。

 

目のまえのすべてに神がある。

 

ありとあらゆるものごとは愛。

 

アメージング!

 

・・・

神の教師の信義の度合いが、このカリキュラムにおける彼の進歩の目安である。

彼は今も、生活のいくつかの側面だけを選んで自らの学びの対象とし、他の側面は切り離しておこうとしているのだろうか。

そうであれば、彼の進歩は限定されており、彼の信頼もまだしっかりと確立されてはいない。

信義とは、神の言葉はいくつかのものごとだけではなくすべてを正してくれるという、神の教師による信頼である。

通常、彼の信義は、はじめのうちはいくつかの問題のみに向けられ、しばらくは用心深く限定されたものにとどまる。

すべての問題を手放して一なる答えに委ねるということは、この世界の思考を全面的に逆転させることである。

そしてそれのみが信義である。

それ以外のものは、真にその名にふさわしくない。

しかし、いかにわずかな信義であれ、そのどれもが、達成するだけの値打ちがある。

準備が整った状態とは、「テキスト」も述べているように、熟達そのものではない。

 

しかし、真の信義は逸脱しない。

首尾一貫しているので、完全に正直である。

揺るがないので、信頼に満ちている。

恐れの不在に根ざしているので、柔和である。

確信しているので喜びにあふれている。

そして自信があるので寛容である。

すなわち、信義はそれ自体の中に、神の教師の他の属性と併せもっているのである。

それは、神の言葉と、神の子についての神による定義とを受け入れているということを示唆している。

真の意味での信義が常に向けられている対象は、神と神の子である。

信義は神と神の子のほうを見て、見つかるまで探し続ける。

そこには防衛しない態度が自然に備わっており、喜びがその状態である。

そして見つけられたなら、すべての信義を捧げられるべきものの上だけに、静かな確信をもってとどまり続ける。

四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか  Ⅷ. 忍耐

責め、裁かれてなんかいない。

 

その夢を握りしめていただけ。

握りしめている力の側にぎゅっと入り込んでいただけ。

 

その握りしめられている手ではなく、そのスペースを提供しているスペースそのものが私たち。

 

「忍耐」とは、ぎゅっとしている力側がほどけていくさまを見つめる優しい目であり、まったく我慢などしていない。

 

する必要がない。

 

ここで述べられている「忍耐」は、心地よいお昼寝のような、くつろぎの様子なのだなぁ。

 

粛々と祝祝と。

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Ⅷ. 忍耐

結果について確信を抱いている者は待つだけの余裕があり、しかも、心配せずに待つことができる。

神の教師にとって、忍耐は自然なものである。

彼が見ているのは確かな結末だけであり、それがいつになるかをまだ彼は知らないかもしれないが、疑ってはいない。

その時期は、その答えと同じく、適切なものとなる。

そしてこのことは、現在および未来に起こる一切のものごとについて真実である。

過去もまた、いかなる間違いも保持してはいない。

世界の益とならなかった出来事も、その出来事を被ったかに見えた者も、過去に含まれてはいない。

このことは、その時点では理解されていなかったかもしれない。

たとえそうだとしても、神の教師は、もし自分の過去の決断が誰かに苦痛をもたらしているなら、それらすべてについて考え直すことを厭わない。

信頼を抱く者たちにとって、忍耐は自然なことである。

時間の中で起こるすべてのものごとの究極の解釈を確信しているため、すでに目にしている結果も、これから起こるものも、何一つ彼らに恐れを引き起こすことはあり得ない。

四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか Ⅶ.  寛大さ

気づきは共有の財産。

 

だから、それは、惜しみなく与えられるもの。

 

気づきは延長される。

 

その管としていたいし、それだけが可能なもの。

 

これが寛大さだとマニュアルに述べられている。

 

決して失わないものに意識を戻す、気づきのために惜しみなく与える。

 

それ以外はただの幻なのだから。

 

 

・・・

Ⅶ.  寛大さ

寛大さという言葉は、神の教師にとって特別な意味をもっている。

それはこの言葉の普通の意味とは異なる。

実は、この意味は、学ぶ必要のあるものであり、しかもきわめて注意深く学ばれなければならない。

神の教師たちの他のすべての属性と同様に、この所属も、つきつめれば信頼に基づいている。

というもの、信頼がなければ、誰も真の意味で寛大にはなれないからである。

この世界にとっては、寛大さとは、「手放す」という意味合いでの「与えてしまうこと」を意味する。

神の教師にとっては、保持するために与えるという意味になる。

このことは「テキスト」と「ワークブック」を通じて強調されてきたが、おそらくこの世界の思考からすると。これは私たちのカリキュラムの他の多くの概念と比べてかなり異色なものである。

その際立った奇妙さは、単に、それが世界の思考とは逆になっているということの明白さの中にある。

可能な限り最も明確な形で、また最も単純なレベルにおいて、この「寛大」という言葉は、神の教師たちの世界の双方にとって、正反対のことを意味している。

 

神の教師は、自己の利益のために寛大になる。

しかし、これはこの世界が語る自己のことを指しているのではない。

神の教師は、他者に与えることのできないようなものは、何もほしいと思わない。

なぜなら、そうしたものはその定義からして自分にとって無価値であることがわかっているからである。

何のために彼がそれをほしがったりするだろう。

それのせいで、彼は失うことになるだけである。

何も得ることはできない。

だから彼は、自分だけが保持できるものは求めない。

なぜなら、それは確実に損失をもたらすものだからである。

神の教師は苦しみたいとは思わない。

なぜ自分に苦痛を保証しょうなどと思うだろう。

しかし彼は、神からくるもののすべて、それゆえに神の子のためのものであるすべてを、自分のために取っておきたいとは思っている。

それらが、彼に属するものである。

こうしたものであれば、彼は真に惜しみなく寛大に与えることができ、永遠に自分自身のためにそれらを保護することができる。

四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか Ⅵ. 防衛しない態度

強いとか弱いとか、優秀とか愚かとか、何にも生じていない。

 

その「創造」そのもの。

 

自分を作ろうと必死だったのは、この世界に限定した価値を信じていて、その価値に自分を閉じ込めようとしてきたから。

 

愚かであること、みじめであることがとにかく嫌で、必死で防衛してきたけど、愚かさとか、みじめさという価値判断そのものが、「自我」の捏造だった。

 

愚かさもみじめさも、正面から見つめられたら、その出どころは、愛でしかなかった。

 

愛に触れると、愚かさ、みじめさといった特別性は消える。

 

もちろん、その対極の、優秀さや尊大さも消える。

 

それらは全部間違っていた。

 

それをただ見過ごしたらいいだけだった。

 

本当に簡素。

 

本当にシンプル。

 

そして、得も言われぬ安堵と喜びそのものだけがある。

 

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Ⅵ. 防衛しない態度

神の教師たちは、どのようにすれば簡素でいられるかを学んできた。

彼らは真理に対抗して防衛する必要があるような夢は一つももっていない。

自分で自分を作り出そうとはしない。

彼らの喜びは、自分が誰によって創造されたかという理解から生じている。

そして、神が創造したものに防衛の必要などあるだろうか。

誰でも、防衛とは狂った幻想の愚かな番人にすぎないと充分に理解するまでは、進歩した神の教師にはなれない。

夢が怪奇になればなるほど、その防衛も激しく強力になるように見える。

しかし神の教師がついにそれらの夢を見過ごすことに合意したとき、そこには何もなかったことを見出す。

最初はゆっくりと、自分自身を欺瞞から解放していく。

しかし信頼が増すにつれて、彼はもっと早く学ぶようになる。

防衛をやめたときに訪れるのは危険ではない。

それは安全である。

平安である。

喜びである。

そして神である。

四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか Ⅴ.  喜び 

無条件でした。

 

喜びに条件はないです。

 

喜びを抑えることにエネルギーを使って疲弊していました。

 

なんてことでしょう。

 

自然に逆らうのはやめます。

 

喜びは感謝と祝福の証です。

 

・・・

Ⅴ. 喜び

 

喜びは、柔和さから必然的にもたらされるものである。

柔和さは、恐れはもはや不可能だということを意味する。

いったい何が、喜びを妨げにくることなどできるだろう。

柔和さが差し出す開かれた両手は、常に満たされている。

柔和な者たちに苦痛はない。

彼らが苦しむことはあり得ない。

どうして彼らが喜ばずにいられるだろう。

彼らは愛されており、安全ではないはずがないと確信している。

攻撃に苦しみが伴うのと同じく確実に、柔和さには喜びが伴う。

神の教師たちは神を信頼している。

そして自分たちの前を神の教師が進み、いかなる危害も訪れないようにしてくれると確信している。

神の教師たちは神からの贈り物を携えて、神の道を進む。

なぜなら、神の声がすべてにおいて彼らを導くからである。

喜びは彼らの感謝の歌である。

そしてキリストも同じように感謝しつつ彼らを見守っている。

彼らがキリストを大いに必要としているのと同じように、キリストも彼らを大いに必要としている。

救済の目的を共有するとは、何と喜ばしいことだろう!

四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか Ⅳ. 柔和さ

何かに「恐れ」を感じたり、想像するときは、勘違いしているということで、そしてだからといって、自分でどうにかせずに、そのまま感覚を感じる。

 

そのうち、それは通り過ぎて、柔和さが表れる。

 

 

・・・

危害というのものは、神の教師たちとって不可能なものである。

彼らは危害を及ぼすことも、危害を被ることもあり得ない。

危害とは裁きがもたらすものである。

それは不正直な想念の後に続いて起こる不正直な行為である。

それは兄弟に対する有罪判決であり、したがって自分自身に対する有罪判決である。

それは平安の終わりであり、学びの否定である。

それは、神のカリキュラムが不在であって、狂気がそれと入れ替わっていることを実証している。

すべての神の教師が学ぶべきこと、しかも自らの訓練期間のかなり早い時期に学ぶべきことは、危害性は自分の機能についての自覚を完全に消し去るということである。

それは彼を混乱させ、怯えさせ、怒らせ、疑い深くさせる。

そして聖霊のレッスンを学習不可能にしてしまう。

また、危害は実際に何も達成できないと悟っている者たちでなければ、決して神から聞くことはできない。

危害から得られるものは何もない。

 

したがって、神の教師たちとは完全に柔和な者たちである。

彼らには柔和さという強さが必要である。

なぜなら完全な柔和さの中でこそ、救済の機能が容易になるからである。

危害を及ぼそうとする者たちにとっては、柔和さは不可能なものである。

危害というものに何の意味も認めない者にとっては、柔和さは単に自然なものであるにすぎない。

正気の者にとって、これ以上のどのような選択に意義があるだろう。

天国への道を知覚しているときに、誰が地獄を選ぶだろう。

そしていったい誰が、頼もしく一切を包み込む無限の強さである柔和さを選ぶ代わりに、危害から生じずにはいない弱さのほうを選ぼうとするだろう。

神の教師たちの力は彼らの柔和さの中にある。

なぜなら、彼らは、自分たちの邪悪な想念が生じたのは神の子からでも彼の創造主からでもないと理解したからである。

こうして彼らは自分の想念を自分たちの源である神に合一させた。

それゆえに、常に神ご自身のものであった彼らの意志には、それ自体として存在する自由がある。

四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか Ⅲ. 寛容さ

問題があると見る。

困ったことがあると見る。

価値の判断をしょうとする。

 

それにより「私」という分離の世界に突入する。

「私」とは、ただの一部。

その孤立の特性を信じ込み、その分断の視点から見ると、世界に脅威を感じ、防衛の必要性を感じ、深刻さが増していく。

 

本当は何にも起こってはいない。

 

愛だけがある。

 

愛そのものだったことを忘れていた。

ただそれだけだ。

 

なんの価値判断も必要ない。

裁きは生じない。

 

「私」は見られて見過ごされていく。

 

愛に落ち、愛に溶ける。

 

・・・

 

四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか 

Ⅲ. 寛容さ

神の教師は裁かない。

裁くということは不正直になることである。

というのも、裁くということは、自分のものではない立場に就くということだからである。

自己欺瞞のない裁きはあり得ない。

裁きは、あなたが自分の兄弟について欺かれてきたことを示唆する。

それならば、あなたが自分自身について欺かれてこなかったはずがない。

裁きは信頼の欠如を示唆するものであり、そして信頼は、神の教師の全思考体系の基盤であり続ける。

それが失われるなら、彼の学びのすべてが失われる。

裁きがなければ、すべてのものごとは等しく好ましいものである。

そのとき、それ以外の判断ができる者などいないからである。

裁きがなければ、誰もがみな兄弟である。

そのとき、離れて立っている者などいないからである。

裁きは正直さを破壊し、信頼を打ち砕く。

神の教師は、裁いていながら同時に学びたいと望むことはできない。