【奇跡講座】 気づきの記録 ~Humming~

「欠乏」の幻想から目覚めると、「愛」そのものだったと氣づきます。

どんな反応だろうが関係ない(W レッスン175)

敵意だろうが、懇願だろうが、忖度だろうが、関係なかった。

「思考」が織りなす世界の反応に「思考」は反応するけど。

「思考」の世界はリアルさに一切触れることができないので、

リアルさはただ光と愛で満ちて延長し続けている。

 

一度は「思考」に留まり、反応にとらわれるけど、一旦ただ受け止めて、そして、それがふわりと溶けていく。

それが起こる度に、無防備にはぐらかさずに見守っていく。

見透かされた先に光と愛がある。

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ワークブック

レッスン175

 

(159) 私は自分が受け取った奇跡を与える。

(160) 私は自分の家にいる。ここでは恐れは異邦人である。

 

神は愛であり、だから私の愛である。

 

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今日、私たちはキリストの目で見ることを練習する(W レッスン174)

 頭のおしゃべりは刺々しい。

 

刺々しいって言う自覚がなかったけど、冷静に観察すると、残酷だし、荒唐無稽だし、はちゃめちゃ、自分本位の巨大な妄想。

とても怖がりで防衛のための計算に余念がない。

トゲトゲ、自我自我、ジガジガ。

 

けど絶対頭のおしゃべりは止められないって思って諦めていたので、思考を抑圧して、気づかないふりをしてるしか出来なかった。

 

コースに出会わなかったら、止めどなく出てくる思考を責めつつも、新たな思考やセラピーなどで誤魔化し、抑圧し、外に投影して、被害者のフリして、表面では、良い人を演じて、裏では殺伐としながら過ごし続けていた。

 

だけど、コースに巡り合い、"訂正"という真の解決法を教えてもらった。

 

あなたが"罪"と思いこんでいる思考は罰せられるものではなく、訂正するものです、と。

 

あなたは「心」です、と。

 

「心」とは一つのものです、

 

全てが「心」であり、それは愛によって創造され、この真実を思い出すことで、愛を創造していると自覚していきます、と。

 

トゲトゲ思考の中に住んでいた私は、「心」を無視していたし、どうせ「心」には行き着かないと思い込み、自分で自分を制限し、「思考」の中に居座っていた。

 

「心」という"純粋な意識"には相応しくない。

「思考」の外には到底、出られそうにない、「思考」が止まることはないのだから、、。

 

ですが、「心」に留まる一瞬の積み重ねに時間を使うことによって、「思考」を中心に置かなくなっていく。

 

自分も周りの全ての人も「心」だったと認識できていくことで自覚が生じていく。

 

「思考」の世界を遥かに凌駕する至福感。

 

一度"啓示"に触れたならば、「思考」を無理に止める必要はなくなる。

 

「心」の圧倒的な安らぎを前に、「思考」はただ静かに退かれていく。

 

私たちは「心」の住人。

 

そして、その「心」とは“神の国"のもの。

 

神の国という永遠が私。

安定しフィットする。

本当の故郷。

 

「思考」をどうにかしたり、「思考」を嘆き裁かなくてもいい。

 

「思考」はただ優しく看過されていく。

「思考」は純粋な空間に溶けていく。

 

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レッスン174

 

(157) 今、私はキリストの臨在の中へと入っていく。

(158) 今日、私は受け取った通りに与えることを学ぶ。

 

神は愛であり、だから私も愛である。

 

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今日から、あなたの司牧の職務が真の献身となって熱意を帯び、それがあなたの指先が触れる人々へと伝わり、あなたが見る人々を祝福する。

心眼は、あなたが出会う誰にでも届き、あなたが思い浮かべる人やあなたを思う人の一人ひとりにも届く。

今日のあなたの体験はあまりに心を変容させるので、それが「神聖な神の想念」というものを識別するための目安となるからである。

(pl157 5:1~3)

こうした体験が増えていき、これ以外のどのゴールもほとんど無価値となるにつれ、あなたが戻ってくるこの世界は、時間の終わりに少しずつ近づいていく。

世界のあり方もわずかずつ天国に似たものとなり、解放の時が少しだけ近くなる。

そして、この世界に光をもたらすあなたは、その光を一層確かなものとして見るようになり、心眼は一層明確になっていく。

いつの日か、今のあなたがまとっている姿でこの世界に戻ることがなくなる時がくる。

そのとき、あなたはその姿を必要としないからである。

けれども今は、それには目的があり、それはその目的に役立つだろう。

(7:1~4)

 

私たちは今、キリストの臨在の中に入っていく。

(8:1)

 

あなたに与えられているものとは何だろうか。

それはあなたが心であるという智識である。

あなたは神の心の中にあり、ただ純粋に心として存在しており、愛によって創造されたので永遠に罪はなく、まったく怖れを知らない。

そしてまた、あなたは自分の源を去ったことはなく、今も創造されたままにあり続けている。

これが、絶対に失いようのない智識として、あなたに与えられている。

それはまた、生きとし生ける一切のものにも与えられている。

この智識のみによって、生命あるものは生きているからである。

(pl158 1:1~5)

 

それが見るのは、肉体を超えた光であり、触れることのできる有形のものを超えた一つの想念である。

誤りや哀れな間違いや罪の夢から生じる罪悪感という恐ろしい考えによって曇らされることのない清らかさである。

それはいかなる分離を見ることもない。

そしてその心眼は、あらゆる人々や状況や、すべての出来事や事件の中に、まったく陰ることのない光をみる。

(7:2-5)

 

これは教わることができるものであり、それを達成したい者は誰でも、それを教えなければならない。

そのために必要なのは、この世界はわずかでもこれに匹敵するような価値のあるものを与えることはできないと認識することであり、

この世界が掲げる目標はすべて、これが知覚されたときにはただ消えてしまうようなものばかりだと認識することである。

そして、今日あなたが与えるものとは、誰のことも肉体として見ない、ということである。

誰のことも神の子として認めて挨拶し、聖性の中で彼は自分とひとつであると認めなさい。

(8:1-4)

 

こうしてその人は自分の罪を赦される。

キリストはすべての罪を看過する力のある心眼があるからである。

キリストによる赦しの中で罪は消え去っている。

この一なる存在の目に入らないので、罪はただ消えていく。

そうした罪を越えたところにある聖性の心眼が、それらと入れ替わるからである。

罪がどんな形をとっていたか、いかに巨大に見えていたか、それらのせいで誰が傷つけられているように見えていたかは、問題ではない。

それらはもはや存在していない。

そしてそれらがもたらした結果のように見えたものもそれらとともに去っていき取り消されるので、二度と生じることはない。

(9:4-6)

 

自分の兄弟の中に見えるものは自分自身にほかならないということを覚えてさえいれば、このレッスンを習得するのは難しくない。

もし彼が罪のうちに見失われるならば、あなたも同じように見失われる。

もし彼の中に光を見るなら、あなたの罪はあなた自身により赦されている。

今日あなたが出会う兄弟一人ひとりが、キリストの心眼をあなたの上に輝かせ、あなたに神の平安を与える新たな機会をもたらしてくれる。

(10:3-5)

 

今日、私たちはキリストの目で見ることを練習する。

(11:3)

額は穏やかで、瞳は静か(W レッスン173)

レッスン155の文章は心地よいし好きな文章。

ただ、最初は自分がそうなれるとは到底思えなかった。

 

一歩退くということは、自我に先導させることをやめること。

この退くということが自我にとっては「犠牲」を伴うように感じていたけど、

この世界自体が幻想なのだから、退く以外選択肢はなかったのだ。

幻想を幻想と優しく見つめる以外ない。

本当はとても簡単なこと。

幻想を嘆く必要も、裁く必要も、求める必要もない。

そして、その視線を純粋な空間に向ける。

神に向ける。

なぜなら、そこに喜びがあるから。

 

世界への関わり方が逆転する。

 

あなたの外見が変わることはないが、あなたはもっとたびたび微笑むようになる。

あなたの額は穏やかで、瞳は静かである。

そして、この世界であなたと同じように歩む者たちは、自分と同じ者たちを認識する。

(Pl 155 1:2.3.4)

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ワークブック

レッスン173

 

(155) 私は一歩退いて、神に導いてもらう。

(156) 私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。

神は愛であり、だから私も愛である。

 

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レッスン155

 

存在するように見えるが実は存在していないこの世界の中で生きるための、一つの生き方がある。

あなたの外見が変わることはないが、あなたはもっとたびたび微笑むようになる。

あなたの額は穏やかで、瞳は静かである。

そして、この世界であなたと同じように歩む者たちは、自分と同じ者たちを認識する。

(1:1~4)

 

世界は幻想である。

そこにくることを選ぶ者たちは、彼ら自身が幻想となり、自分の実相を回避できる場所を求めている。

しかし、ここにも自分の実相があると発見したときには、彼らは一歩退き、その実相に導いてもらおうとする。

実際、それ以外に、彼らにどんな選択肢があるだろう。

幻想に真理を先導させるのは狂気である。

しかし、幻想を真理の後ろに退け、あるがままの真理を前面に立たせることは、単に正気であるにすぎない。

(2:1~6)

 

これが、今日、私たちが行う単純な選択である。

(3:1)

すべてが愛で出来ている(W レッスン172)

看過すること、無関心であること、という意味を誤解していたことに改めて氣がつきました。

 

マザーテレサの「愛の反対は無関心」という言葉を鵜呑みにしていましたし、さらには、調べてみるとこれはマザーテレサの言葉ではなかったみたいです!!

(情報やイメージが作り上げる鵜呑み、歪曲、まさに幻想という構造ですね)

 

マザーテレサは、

「すべての人が幸せになる。これを邪魔している最大の敵は、私達の心の中に住む隣人の苦しみ、痛みへの”無関心”ではないでしょうか」と言われたのが、違う様に伝わっているみたいです。

 

また、マザーテレサが言ってたのはこれらのことだと。

  • 平和は微笑みから始まります。
  • この世界は食べ物に対する飢餓よりも、愛や感謝に対する飢餓の方が大きいのです。
  • 私たちは、成功するためにここにいるのではありません。誠実であるためにここにいるのです。
  • ノーベル平和賞受賞のインタビューで「世界平和のために私たちはどんなことをしたらいいですか」と尋ねられたテレサは、「家に帰って家族を愛してあげてください。」と答えた。

こんな受け答えをしていたという記事を見つけました・・・。

 

だから、マザーテレサは「愛に無関心」になってるよ~って伝えていたのだなぁ~って。

 

 ・・・・・

「コース」を理解するまでの私は、自我の鵜呑みで、「愛の反対は無関心」という言葉を使って、自分を責めるための材料にしていました。

 

自分と人の”自我”に関心がそもそもないことや、さらにどんどんなくなっていくことはダメなこと、冷酷なことで、自我に真剣に向き合う必要があるってどこかで思い込んでいたり、

 

他者の自我に取り合わないことで、他者から責められるという投影を作りだして、自分を責めたり。

 

特にセラピーの仕事での「受容」を取り間違えていて、自我に「関心」を持つ必要があるんだと思い込んでいて、頑張ってそうしなければと思い込み、本当にはそれが出来ていない自分を責めていました。

 

だけど、「自我」が「自我」を受容することは不可能なことだったし、これこそが「自我」をリアルに仕立てあげ、罪意識を永遠に続けさせるためのものだったのです。

 

逆に、「受容」や「信頼」とは、自我に「関心」を向けずに、優しく見過ごし、奥にある「真の私たち」を見ることなのです。

 

自我への関心は、幻への関心。

「愛の反対は無関心」は自我による勘違い。

自我へ向けた関心は不可能だったのです。

 

この間違いを認め、真実に心を向けることだったのです。

 

自我への「関心」という無謀な行為を手放し、愛への「無関心」という不自然さをやめること。

 

もっとも、「愛」は私たちが関心を向けていなくても、ずっと私たちに与えられていて、ずっと私たちを包んでくれているから、いつからでも氣づけばもうすでに愛に包まれる。

 

ただこの事実だけに関心を向け、心を開きます。

 

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ワークブック

レッスン172

 

防衛しないことの中に、私の安全がある。(153)

 

私は神の司牧者のひとりである。(154)

 

神は愛であり、だから私も愛である。

心は愛で出来ている(W レッスン171)

「どうせ私は愛される資格はない。だから、私も誰も愛さない」

こんな信念を胸に秘めてきた。

今考えると、crazyだなぁ。

ほんとにつくづく。

この信念を隠し持っていたことをはっきりと意識に上げることをしてこなかった。

どこかで、この信念がひっくり返るなんて不可能だと思っていた。

この信念にふさわしい怒り、悲しみ、恐れが、癒えて、消えることはないと思っていた。

 

コース実践を何巡か繰り返し、ようやく、コースの述べることに本気で心を開けるようになった。

コースに述べられていることは、物質上の私の頭を遥かに凌駕した叡智への誘導だったことが明らかになって、人知という幻が一掃されていく。

 

神は愛で、だから私たちも愛。

 

これは人為的な理解は不可能で、この様な思考に引っくり返らない。

 

ただ素直に「イエス」と従うという一択。


緩んだ心は愛。

 

最も当たり前でシンプルで自然な状態であり、最も幸せな選択。

 

これ以上、望むものは私の心の中にはなかった。


自我を超えると自由がおとずれる。


愛の只中にいることが思い出される。

・・・・・

ワークブック

復習Ⅴ

 

父よ、私たちの足取りを確かなものにしてください。

疑いが鎮まり、私たちの神聖な心が、静かになって、私たちに語りかけてくれますように。

私たちにはあなたに差し出す言葉はありません。

私たちはただあなたの言葉に耳を傾け、それを自分のものにしたいと願うだけです。

幼子には理解できない道を、その子の手を引いて進む父親のごとく、私たちの練習を導いてください。

子どもは父親が手を引いてくれるので、安全を信じてついて行きます。

私たちもそのようにあなたのもとで練習します。

もし私たちがつまづいたら、あなたが抱き起してくださいます。

道を忘れたときには、あなたの確実な記憶を頼みとします。

私たちがわき道に逸れても、あなたが忘れずに呼び戻してくださいます。

さらなる確信を抱き、より迅速にあなたのもとへ歩いていけるように、今、私たちの足取りを速めてください。

ですから、あなたから与えられた想念を復習するとき、私たちの練習を統一するためにあなたが与えてくださる言葉を受け入れます。

(2:1~6・3:1~6)

 

神は愛であり、だから私も愛である。

(10:8)

 

レッスン171

 

すべてのものごとは神を代弁する声のこだまである。(151)

決断の力は私にある。(152)

神は愛であり、だから私も愛である。

本当に大きな誤解だった・・・(W レッスン170)

私たちは、皆、確かさという愛そのもの、「神の子」であるということは、この世界で私たちは何もする必要がなかったし、この世界がフェイクだった、、、。

 

そしてこのことを、神から「犠牲」を被っている、と感じたり、「欠如」を感じたり、空白を「恐れ」と解釈していたから、「神の子」という自覚を思い出したくなかった。

 

この世界での「役割」をもらい、演じていなければ、この世界でお役御免になってしまい、必要ない人間の烙印を押される!と恐れていた。

 

だけど、本当は、もっと奥の意識には、神に殺されるくらいなら、神を殺そうと思っていたということ。


確かさの世界から抜け出した私たちは、自分の力で、新たに確かな世界を作り出そうと血眼になって戦っていた。

 

そんなとても甚大で壮大な妄想計画を、他人事と思ったり、絵空事として片付けたくなるけど。

 

この事実を見るのを避けていたけど、ほんとは腑に落ちるし、わかって、認めて、ホッとした。


もう戦わなくていいって安堵した。

・・・・・

 

よくよく冷静になっていくと、

 

何に対して犠牲を被っていると感じていたのかがはっきりさせられた。

 

役割や、特別を必要としている呈でいたけど、


それこそが真の自分を犠牲にしていたのだった。

 

もう幻想、恐れを崇拝しない。


恐れに留まって、防衛の策を練り、役割の確保に奔走し、疲弊するという戦争の生き方を崇拝しない。

 

喜んで、この世界への関わり方を変えたい。

 

真の故郷に居るための訂正の場としてこの世界を使おう。

 

この肉体も、真の故郷に居るための道具として使おう。

・・・・・

ワークブック

レッスン170

 

神に残酷さはなく、私にもない。

 

・・・・・

 

何かに対抗して自分を防衛するとき、その何かを作り出しているのはあなたであり、あなた自身の防衛によって、それが実在性を帯び、そこから脱出できなくなっている。

武器を捨てなさい。

そのときあなたは初めて、怖れを虚偽を知覚するだろう。

(2:6.7)

 

あなたが攻撃する相手は、外にいる敵であるかに見える。

けれども、あなたの防衛が、内なる敵を作り上げているのである。

それはあなた自身と戦う異質な考えであり、あなたから平安を奪い、互いにまったく和解不可能に見える二つの陣営へとあなたの心を分裂させている。

今や、愛にはその反対のものである「敵」がいることになる。

そして今では、異質なものである怖れのほうがあなたの真の本性に脅かされ、あなたによる防衛を必要としている。

(3:1~3)

 

あなたの空想上の正当防衛が想定通りに展開されるための手段について、

注意深く検討してみるなら、その考え方がどのような前提に立っているかを知覚することができる。

まず第一に明らかなのは、想念はその源を離れるはずだという前提である。

なぜなら、攻撃しているのはあなたであり、それを初めに考えついたのもあなたに違いないからである。

けれども、あなたは自分の作り出した分裂は実在していると信じ込んで、自分自身の外側を攻撃し、攻撃される相手から自分の心を分離させている。

(4:1-3)

 

愛が敵になると、残酷さが神とならざるをえない。

そしてそのような神々は、その崇拝者たちに対し、神々の命令に従い、決してそれらを疑ってはならないと命じる。

そのような命令に分別があるのか、正気であるのかを問う者には、厳しい処罰が情け容赦なく与えられる。

分別がなく狂っているのは常に敵方であり、個の神々がいつも情け深く公平だとされる。

(6:1~4)

 

最後の妨げは、それが無であると信じることが最も難しいものである。

頑丈な岩塊のごとき外観を呈し、突き通すことはもちろん、恐ろしくて乗り越えることなどできないかに見えるその妨げとは、神ご自身の対する恐れである。

ここに、恐れの想念を神としてあがめる根本的な前提がある。

恐れは、それを崇拝する者たちによって愛されており、今や愛は残酷さを備えているように見えるからである。

(9:3~5)

 

今日あなたが下す選択は確実である。

なぜなら、あなたは自分が刻んだこの石像を最後にもう一度だけ見て、もはやそれを神とは呼ばなくなるからである。

あなたはこれまでにもこの地点に達したことはあったが、この残酷な神がまた別の形で自分の中に留まることを選択した。

それゆえに、神への恐れがあなたに戻ってきた。

今度こそ、あなたはそれをそこに置いていく。

そして、恐れの重荷を背負わずに戻っていく新しい世界は、恐れで見えなくなった目で見る世界ではなく、あなたの選択があなたに回復させた心眼によって見える新しい世界である。

(11:1~6)

 

今やあなたの目はキリストに属するものとなり、キリストがその目を通して見る。

今やあなたの声は神に属するものとなり、神の声をこだまする。

そして今や、あなたの胸は永遠に安らぐ。

あなたは偶像にかわるものとして神を選んだのであり、創造主から与えられたあなたの属性が、ついにあなたに戻されたのである。

神からの呼びかけは聞かれ、応えられた。

今や、神ご自身が残酷さと入れ替わり、恐れが愛に道を譲った。

(12:1~6)

 

父よ、私たちはあなたと同質のものです。

私たちの中に残酷さはありません。

あなたの中にそれがないからです。

あなたの平安は私たちの平安です。

そして私たちは、ただあなたから授かったものだけで世界を祝福します。

私たちはもう一度選択します。

そして、兄弟全員が自分とひとつであることを知りつつ彼らのために選びます。

私たちは今、あなたから救済を受け取りました。

私たちは同じやり方で、それを兄弟たちにもたらします。

また、私たちを完全にしてくれる兄弟たちについて、感謝いたします。

私たちは、彼らの中にあなたの栄光を見て、彼らの中に、平安を見出します。

あなたの聖性が私たちを自由にしてくださったので、私たちは神聖です。

そして私たちは感謝を捧げます。

アーメン。

(13:1~11)

 

 

恩寵を映し出す眼差し(W レッスン169)

 目が離せないほど澄み切った佇まいや、差し出された豊かな愛に出会うと、心の底から救われた気持ちになるし、拝みたいほどの感謝の気持ちで胸いっぱいになる。


そして、自分もそうありたいと思う。


だけど、これを願望にしてしまうと、「欠乏」からの願いとなってしまい、「欠乏」のストーリーを作り出し続け、「愛」にはたどり着かない。


あの澄み切った清々しさや溢れる愛は、こうした「願望」や「欠乏」という「分離」を見抜いて、それらを捨て去り、目が覚めたからこその在り様だから。


だから、今日も淡々と、日常の中で、心の中に湧いてくる、差異への動揺や反応を、「訂正」の機会として、全部残らず感じて、明け渡す。


それと同時に、内側に垣間見える清々しさの片鱗の中で休らい、その恩寵に感謝する。


そして、こうして与えられている恩寵を、私も一つ残らず与えられるように、心を開き続けたい。


・・・・・

ワークブック

レッスン169

 

恩寵より、私は生きる。恩寵により、私は解放される。

 

しかし、開かれた心には目覚めを促す呼びかけが聞こえるという意味において、私たちは恩寵のための準備を整えてはいる。

そのような心は神の声に対して固く閉ざされてはいない。

自分の知らないことがいくつもあるということを自覚するようになっており、それによって、自分が慣れ親しんでいる体験とはまったく異なる状態を受け入れる用意ができている。

(3:4~6)

 

赦しが、救済を貫いている中心的主題であり、それにより、救済のすべての要素が有意義な関わりの中に保たれ、救済が進む経路が定まり、その成果が確かなものになる。

そして今、私たちは恩寵を求める。

それは救済が授けることのできる最後の贈り物である。

恩寵が提供する体験は時間の中で終わる。

なぜなら、恩寵は天国の前兆であるとはいえ、それが時間の想念と入れ替わるのは、ほんのわずかな間だけだからある。

(12:1~3)

 

そのわずかな間で充分である。

そこに奇跡が置かれる。

あなたは恩寵の体験を通して聖なる瞬間を受け取り、そこから、その奇跡をあなたの顔に残る光を見るすべての者たちへと与え返す。

キリストの顔とは、時間を超えたところにわずかに足を踏み入れ、そこで一瞬の間感じた一致の状態を鮮明に映し出すものを持ち帰り、世界を祝福した者の顔にほかならない。

あなたの一部が外側に残され、何も知らず、目覚めることなく、あなたが真理を証ししてくれるのを必要としている間は、どうしてあなたがついに永遠に達することなどできるだろう。

(13:1~4)

 

一瞬の間そこに行き、恩寵が与える贈り物を受け入れることを喜びとしたように、戻ってくることについても感謝しなさい。

あなたはそれらの贈り物を自分自身に持ち帰る。

そして啓示はもはや遠く離れたところにあるのではない。

それが訪れることは確実となっている。

私たちは恩寵を求め、恩寵からくる体験を求める。

私たちは、それがすべての者に差し出す解放を歓迎する。

私たちは求めること自体が不可能なものは求めない。

恩寵が授けることのできるものを越えたところを見ることはしない。

恩寵が授けるものであれば、私たち自身に与えられた恩寵の中で、私たちにも与えることができる。

(14:1~9)

 

今日の私たちの学びの目標は、以下の祈りを超えるものではない。

けれども、この世界の中に、今日私たちが求める以上のものがあるだろうか。

私たちは聖霊の恩寵を求め、聖霊は私たちの求めに応じて、聖霊が受け取った通りにそれを与えてくれる。

 

恩寵により、私は生きる。

恩寵により、私は解放される。

恩寵により、私は与える。

恩寵により、私は解放する。

(1:1~6)