はかなさを、はかなさのまんま受け入れて、それが看過されるまんまにしよう。
癒しとは、この世界の影が去ることの表現。
癒しが起こるままに。
ただ受け入れたい。
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何もかも、わたしが捏造した夢でした。
その捏造にてじぶんを追い込んできました。
そんな辛いことはさっさとやめて、癒しのくつろぎを共有します。
・・・
祈りの歌
第三章 癒し
序
祈りには援助と証しの両方が伴い、それらが険しい上昇を、より優しく確かなものとし、恐れの苦痛を和らげ、慰めや、希望を差し出してくれる。
赦しを証しし、祈りを援助するもの、そして最後には必ずうまくゴールが達成されるという安心感を与えるものは、癒しである。
その重要性は、過度に強調されるべきものではない。
なぜなら、癒しとは、赦しの強さのしるし、またはその象徴であり、祈りのゴールについて心が変化したことの一つの結果であり、影であるにすぎないからである。
Ⅰ.病気の原因
結果を原因と取り間違えてはならない。
また、病気を、その原因でるはずのものから分離した別のものと考えてもいけない。
病気とは、一つのしるしであり、この世界の使用法によれば実在性があって公平であるように見える邪悪な想念の影である。
内的な「罪」の外的な証拠であり、神の子を痛めつけ、傷つけようとするもの、赦そうとしない想念の証しである。
肉体を癒すというのは不可能なことであり、このことは、つかの間しか持続しないというその「治療」の性質により示されている。
肉体はやはり死すべきものであり、したがって肉体の癒しとは、塵から生まれて塵に帰るものである肉体が、そこに帰るのを遅らせるだけのものである。
肉体を生じさせた原因は、神の子が抱いた赦そうとしない思いである。
それはその源を離れていない。
そして、肉体の痛みや老いや、肉体に押されたしの刻印に、このことがはっきり示されている。
自分の生命が肉体からの指令に操られ、その不安定でわずかな呼吸へとつなぎとめられていると考えている者たちには、肉体は恐ろしくて脆弱なものに見える。
掴み取ろうとする両手をすり抜けていき二度と戻らない一瞬一瞬の中で、死が彼らを睨みつけており、彼らがそこにとどまることはできない。
そして肉体が変化し、病んでいくにつれ、彼らは恐れを抱く。
自分の胸に重苦しい死の匂いを感じるからである。
肉体が真の赦しの結果として癒されることはあり得る。
真の赦しのみが不滅性を思い出させることができ、不滅性とは聖性と愛の贈り物である。
赦しを与える心が理解していなければならないことは、キリストの聖なる顔にかかる影のすべてが看過されねばならないということである。
そして、病気とは、それらの影の一つとして見られるべきものである。
それ以外のものではない。
すなわち、ひとりの兄弟からもうひとりの兄弟に対して為された裁きのしるしであり、神の子が自分自身に与えた裁きのしるしである。
というのも、彼は自分の肉体を牢獄として呪ったからであり、さらに、自分でその役目を肉体に与えたということを忘れてしまったからである。
彼がしたことを、今、神の子は取り消さなければならない。
しかし、ひとりでそれを行うのではない。
なぜなら、彼はその牢獄の鍵を投げ捨ててしまったからである。
そしてその鍵とは、自分の聖なる無罪性と父の愛の記憶であった。
だが、父が彼の中に置いた声において、彼に助けが与えられている。
癒す力が、今、彼の父からの贈り物となっている。
なぜなら、神はご自身の声を通して今でもわが子に達することができるからであり、肉体が彼の選んだ家となることはあっても、決して真理における彼の家とはならないということを、彼に思い出されるからである。
したがって、真の癒しと偽りの癒しが区別されなければならない。
相対立するものでできている世界が、癒しの場所である。
天国には癒すものなどないからである。
この世界においては、祈りが誤った求め方とすることがあり、慈愛のように見えるものが殺すために赦すことがあるのと同様に、癒しもまた、偽物にも本物にもなり得る。
すなわち、世界の力の証しにも、絶えざる神の愛の証しにもなり得るのである。