【奇跡講座】の気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

ただの思考に過ぎない(レッスン221)

思考に力を見なくなる。

 

その時、沈黙だけがリアルだと思い出す。

 

思考と感情がそこにあっても、ただ見過ごされていく。

 

その時、私たちは故郷に帰ってる。

 

裁き裁かれても、

 

それには何の力もないのだと、それは清々しい風になる。

 

レッスン221からは、さらに、思考ではなく感覚だけになっていく。

 

これを言語化するのは不可能だけど、

 

それでも、それは現れている。

・・・

 

ワークブック

 

レッスン221

 

私の心に平安が訪れますように。雑念がすべて静まりますように。

 

・・・・・

 

1.赦しとは何か

 

3.  赦したくないという思いは、さまざまなことをする。

自分が選んだ道を邪魔すると見えるものをねじ曲げ、くつがえし、自分のゴールを必死になって追求する。

歪曲することがその目的であり、それを達成するための方法そのものも歪曲である。

怒り狂って実相を粉砕しようとするばかりで、自らの見解に対立するかに見えるものには一切関心をもたない。

 

4.一方、赦しは、じっと静かにしていて、何もしない。

実相のどの側面をも害することはせず、自らが好む外観へとねじ曲げようともしない。

ただ見て、待つのみであり、判断はしない。

赦そうとしない者は価値判断をせずにはいられない。

赦すことができずにいる自分を正当化してしまうからである。

しかし、自分自身を赦そうとする者は、必ずありのままの真理を歓迎することを学ぶことになる。

 

5.だからあなたは何もせずにいなさい。

そして、何を為すべきかは、聖霊による赦しを通して、教えてもらいなさい。

聖霊はあなたの導き手、救済者、保護者であり、強い希望を抱き、あなたが最後には成功をおさめると確信している。

聖霊はすでにあなたを赦している。

それが神から聖霊に与えられた機能だからである。

今度はあなたが聖霊の機能を共有し、聖霊が救った者を赦さなければならない。

聖霊は彼の無罪性を見ており、神の子である彼を讃えている。

 

レッスン221

 

私たちはただ一つの意図を抱いて待つ。

それは、自分の呼びかけに対する父の答えを聞き、雑念を静めて神の平安を見出し、私たちの本性について神が語るのを聞き、彼がわが子にご自身が啓示してくれるように、という意図である。

(2:6)

 

楽(レッスン220)

すでに成就していることを思い出す。

 

当たり前すぎるから無視しているけど、もうすでに全ては満ちている。

 

浮上する焦りや欠乏感を優しくなぞり、ジッと見つめると、

 

それは、空に溶け込んでいく。

 

そうすると、何のために?という目的から自由になる。

 

気楽さ楽さ悠々と。

 

風は風

 

椅子は椅子

 

座るは座る

 

そのまんまで完璧。

 

 

 

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 ワークブック

レッスン220

 

復習

 

1.(200) 神の平安以外に平安はない。

 

ほかの道を行けば迷うだけなので、私がこの平安の道からさまよい出ることがありませんように。

 

そうではなく、わが家へと導く聖霊の後に従っていけますように。

 

そうすれば、平安は神の愛と同じように確かなものとなります。

(1-2.3)

(レッスン219)

「無罪潔白」を認めます。

 

物語の中に入って、責めたり責められたり、

もうそんな世界に戻りたくないです。

 

「潔白」さを認めるのがなかなか難しかったです。

抵抗がありました。

この世界の催眠にかかっていましたし、混乱を望んでいたからです。

混乱に一種の楽しみを見ていたので。

 

だけど断然「潔白」さがうれしいです。

どこまでも永遠に「潔白」なのです。

 

澄んだ目のままでいたらいいのです。

・・・

ワークブック

 レッスン219

 

復習

 

1.(199) 私は肉体ではない。私は自由である。

 

私は神の子である。

私の心よ、じっと静まりなさい。

そして一瞬の間、このことを考えよう。

それから、父がわが子として永遠に愛しているものとは何かについて混乱することなく、地上に戻ろう。

(1-2.3)

 

あなたの無罪潔白を宣言しなさい。

(199 4:2)

意味を持たせなくていいという安らかさに(レッスン218)

咎め」に留まろうとしていたけど、

 

そこに留まろうとするのをやめて、

 

とにかく、どこにも留まろうとせずに、

 

ただ落ちてゆく。

 

この世界に何か意味を持たないままで、

 

ただ落ちてゆく。

 

なんの判断もせず、計算もせず、駆け引きもせず、

 

何がなんだかわからないまま、

 

ただ落ちてゆく。

 

落ちてゆくほどに、ゆだねていく。

 

また、「咎め」と「欲求」はセットだったのだなぁと。

 

「欲求」とは、足りなさを演出して、自分を「咎め」ていることになる。

 

「欲求」が湧いたら、そこにも留まらず、ただ落ちてみる。

 

そうして「欲求」が消えたら、それでいいし、消えなかったら、純粋に「欲求」に従ってみる。

 

そして、そこに安らぎとなんでもなさ、「空(くう)」が拡がる。

 

ゆだねた先のパラダイス。

 

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ワークブック

 レッスン218

 

復習

 

1.(198) 私の咎めだけが私を傷つける。

 

私の咎めが私の心眼(ビジョン)をくもらせる。

見えない目によって、私の栄光の霊視映像(ビジョン)を見ることはできない。

 

しかし、今日、私はこの栄光を見て喜ぶことができる。

(1-2.3)

火(レッスン217)

奇跡講座は、「自己」、「自我」を燃やす火だったから、

 

嫌がられて当然だったんだ。

 

燃えた後に残るものが私たちで、これ以上の至福はないのだけど。

 

燃えた後じゃないと感じられたいものだから。

 

怖がられたり、嫌がられるのは、仕方ないことだった。

 

そして、こんなに強力だという自覚を持つことは大切だった。

 

私こそ、この自覚がなかったから、闇雲に火を扱って自分が火傷していた。

 

火傷じゃだめだ。

 

全部燃えるのだった。

 

そこにあるのが本質。

 

どうしたって、これだけが事実。

 

そして、清々しくて、祝福そのもの。

 

 

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 ワークブック

レッスン217

 

復習

 

1.(197) 私が得られる報酬(もの)は、自分自身からの感謝のみである。

 

私の救済について私以外の誰が感謝を捧げるべきだろう。

 

そして、救済以外の何を通して、私が感謝を捧げるべき相手である自己を見出せるだろう。

(1-2.3)

 

アナーキーの恩寵(レッスン216)

あなたが自分自身の想念以外の何かによって傷つけられることは不可能だと理解するとき、神に対する恐れは必ず消滅するからである

(レッスン196 8:3)

 

・・

 

私の想念が世界を作り上げていました。

 

私の想念を通して世界を見ていました。

 

私の想念の全部を"聖霊"にゆだねます。

 

「私は何が何のためにあるのか知りません」

 

ゆだねて、明け渡したら、

 

目の前に広がるのは優しい光のコントラストでした。

 

それを愛ます。

 

何もかもが完璧にありました。

 

不機嫌な人も、

 

可燃物のゴミの日に出されている不燃物のゴミも、

 

腰痛も、

 

今日の天気も、

 

全ては完璧に機能していて、

 

全てがプロセスでした。

 

「何が何かわかりません」の真っ新さで、素直な感覚が上がってくるままにして、

 

それが、全て、純粋な空(くう)に溶けていくままにします。

 

そして、深い静寂へ。

 

何にもなさの喜びへ。

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ワークブック

 

レッスン215

 

復習

 

1.(196) 私が十字架にかけることのできる相手は、私自身だけである。

 

自分のしていることのすべては自分自身に対して為されている。

私が攻撃すれば、私が苦しむ。

しかし私が赦せば、救済は私に与えられる。

(1-2.3.4)

 

・・・・・

 

 あなたが自分自身の想念以外の何かによって傷つけられることは不可能だと理解するとき、神に対する恐れは必ず消滅するからである

(レッスン196 8:3)

共有されていくもの(レッスン215)

誰かが癒されたとき、私も癒される。

 

誰かがゆるされたとき、私もゆるされる。

 

誰かが救われたとき、私も救われる。

 

私が癒されたとき、誰かも癒される。

 

私がゆるされたとき、誰かもゆるされる。

 

私が救われたとき、誰かも救われる。

 

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誰かが私をゆるさないとき、私は私と、その人をゆるす。

 

なぜなら、ゆるさない、と言う感覚は、幻想で、不自然で、不可能なことだったから。

 

私が誰かをゆるさなかったとき、私は私に幽閉され、不自由さでがんじがらめだった。

 

ゆるさなさが、ずっとそこにあるのは、「個人」が存在している、「個人」を守らなければ、と言う思い違いがあるため。

 

主張を握りしめていないと「個人」は消えてしまう。

 

なんであれ、何かの主張を握りしめている間は、それを守り続けなければいけなくて、緊張と不自由さに苛まれる。

 

もうこんな狭いところにいたくないって思った。

 

緊張と不自由さから解かれたいって真に願うとき、主張から解かれ、「個人」から解かれる。

 

「個人」から解かれることが、こんなにも安心をもたらし、軽さと喜びをもたらすなんて!

 

ひとたび、この解放を知れば、「個人」を握りしめている緊張と不自然さ、不自由さはもう必要ない、とわかる。

 

そして、

 

本当は、

 

ゆるさないも、ゆるすも、ゆるされたも、本当は存在していなかった。

 

それは、夢だった。

 

あるのは、平安。

 

あるのは、静寂。

 

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ワークブック

 

レッスン215

 

復習

 

1.(195) 愛は私が感謝の内に歩む道である。

 

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兄弟があなたよりも不自由だからといって、それはあなたが神に感謝を捧げるべき理由にはならない。

また、自分より彼のほうが自由であるように思えるという理由であなたが怒りを感じることも、正気の沙汰ではない。

愛は比較しない。

そして、感謝は、愛とつながっているときのみ真摯なものでありえる。

(195.4:1-3)

 

私たちが比較をやめるとき、憎悪は忘れられるからである。

そうすれば、平安への妨げとして、これ以上何が残っているだろう。

(195.8:2.3)