【奇跡講座】の気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

(レッスン358)

世の中の心配事が本当は「無」だったことを認めるのが難しい。

 

私と思っていたものも「無」だったよ。

 

私というものは「無」。

 

ガーーン、だけど、ほんのり嬉しい。

 

何かあると思っていただけ。

 

何もかも「無」だったよ。

 

そして、そのかわり、全て神に与えられていた。

 

「愛」そのものだった。

 

沈黙の先にある麗しい愛。

 

今はそれを思い出し表す機会としてすべてがある。

 

何が何なのか?

ここがどこなのか?

私は誰なのか?

 

答えは「愛」。

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ワークブック

レッスン358

 

神への呼びかけは聞かれないことも、応えられないままにされることもない。

そして私は確信している。

神の答えこそ、私が真に望む答えであることを。

 

聖霊よ、私の真の本性を覚えているあなただけが、私が真に望むものを覚えています。

あなたは神のために語るので、私のためにも語ります。

そしてあなたが私に与えるものは、神ご自身からもたらされます。

父よ、ですからあなたの声は私のものでもあります。

そして私が望むのは、あなたが与えてくださるものが、私のためにあなたが選ばれた形で、私のものになることだけです。

私が、自分の知らないすべてを思い出せますように。

思い出しながら、私の声が沈黙しますように。

私があなたの愛と配慮を忘れることなく、あなたがわが子に与えた約束を常に私の自覚のうちに保てますように。

私自身は無であっても、私の真の自己はすべてであるということを、私が忘れずにいられますように。

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(レッスン357)

家族や子供、友達、共に真理を学ぶ兄弟を見るまなざしがどのようなものだったか?

 

心あたたまる静かなものであれば、彼らと私をちゃんと見ていることになる。

 

ザワザワと焦ったり怖かったり苦しいときは、間違った見方をしている。

 

そんな時は、静かになり、内側に戻る。

 

兄弟を本当に見るとき、それは、兄弟と私を助けたことになる。

 

愛そのものの中で目を覚ます。

 

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レッスン357

 

真理は、神に対する私たちの呼びかけの一つひとつに応える。

はじめは奇跡によって応え、その後、真理そものもとして私たちに戻ってくる。

 

真理の反映である赦しが、どのようにして奇跡を差し出せばよいか、どうすれば自分の暮らしている場だと思っている牢獄から抜け出せるかを、私に教えてくれます。

神聖なあなたの子は、まずはじめに私の兄弟の中にいることが示され、それから私の中にもいることが示されます。

あなたの声は私に、あなたの言葉を聞き、受け取った通りに与えるようにと、忍耐強く教えてくださいます。

そして今日、私があなたの子を見るとき、あなたが定めた通りにあなたへの道を見つけるようにと、あなたの声が私に教えているのが聞こえます。

「彼の無罪性を見て、あなたが癒されなさい」と。

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(レッスン356)

どんなものでも、限定的なもの、個別的なものは、「分離」から離れないための言い張り。

 

私は、「わかってほしい」と言う気持ちを強く持っていたけど、その言い張りこそが、「分離」を取り下げない「病」のようなもの。

 

「わかってほしい」という思いが「全体」を遠ざけてきた。

 

私の思いは、全体そのものだったと受け入れる。

 

わかるも何も、「わかってもらえない」ことは、なんの重要なことでもなかった。

 

重要視し、個人に居座り、愛とつながらないようにしていた。

 

全ては明らかだった。

 

何も隠されていなかった。

 

それを受け入れたら、「個人」という孤独な苦しみと入れ替わりに、満ち満ちた喜びに溢れた。

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レッスン356

 

病氣とは罪の別名である。

癒しとは神の別名である。

だから、奇跡は神への呼びかけである。

 

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父よ、わが子があなたに呼びかけるなら必ずそれに答えると、あなたは約束されました。

彼がどこにいようと、彼の問題が何であると思えようと、自分がどのような存在になったと彼が信じていようと、それは問題ではありません。

彼はあなたの子ですから、あなたは彼に答えてくださるでしょう。

奇跡はあなたの愛を反映しており、だからそれが彼に答えます。

あなたの名がすべての罪の概念にかわるものとなります。

そして、罪なき者が苦痛を被ることはありえません。

あなたの名はあなたの子に答えを与えます。

あなたの名を呼ぶということは、彼自身の名を呼ぶことにほかならないからです。

(全文)

(レッスン355)

平安をお預け状態にしていたのは、私。

 

許可だけだったのに、ゆるす理由に納得のいくものを寄せ集めるのに時間をかけていた。

 

ゆるしたくない。

ゆるされたくない。

ゆるされるはずがない。

 

自ら握りしめて離さない罪の数々。

 

平安でいること、幸せであることに、なんの条件も理由もいらない。

 

状態や状況と、平安でいること、幸せであることは左右されない。

 

それが腑に落ちたら、知覚、視覚は一変する。

 

この平安の只中、幸せの只中を、ただ甘受します!

 

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レッスン355

 

私が神の言葉を受け入れるとき、平安や喜びや、私が与える奇跡のすべてに、終わりはなくなる。

今日をその時としてもよいのではないだろうか。

 

父よ、あなたが約束してくださった喜びを、私が待ちつづけなければならない理由があるでしょうか。

流刑の身のわが子にあなたが与えてくださった約束の御言葉を、あなたは必ず守ってくださいます。

私の宝物が私を待っていることを、私は確信しています。

ただ自分の手を伸ばしさえすれば、それは見つかります。

今も、私の指はそれに触れています。

それは間近にあります。

私は永遠の平安に至るために、もう一瞬も待つ必要はありません。

私が選択するのはあなたであり、あなたと一緒に選択される私のアイデンティティーです。

あなたの子は彼自身となり、あなたを自分の父であり、創造主であり、自らの愛する存在であると、知るでしょう。

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(レッスン354)

神の子としての自覚というのは、「愛」に安らいでいるということと、それは、この世界の「すべて」がそうであるという気づきの中にいること。

 

そして、そのことを認めるのに、何の努力も必要なかったんだなあ、と認めること。

 

「個人」「我流」の頑張りを、ふんわりと手放す。

 

生きている目的がなんだったのかをもう一度立ち止まって見定める。

 

「目的」となるものがぐらぐらした不安定なものであれば、いつまでたっても安らかな気持ちにはなれない。

 

なので、不安定なときは目的がずれていると思い出す。

 

「目的」が確かなものであれば、ただただ安心するだけになる。

 

「確かなもの」に対しては、何もする必要がない。

 

ただそれを見れば、無条件で愛でるだけになる。

 

何もする必要のない「愛」そのものの私たちすべてに対して、「yes!」と祝福することを止めることなどできなくなる。

 

それがつながっている、ひとつらなり、キリストと共にある、ということ。

 

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レッスン354

 

キリストと私はともに立ち、平安のうちに、目的を確信している。

キリストが私の中にいるのと同じように、キリストの中には彼の創造主がいる。

 

キリストとの一体性が、私をあなたの子として確立します。

それは、時間の及ばぬところで、あなたの法則以外のすべての法則からまったく自由なあなたの子です。

私には、私の内なるキリスト以外の自己はありません。

私には、キリスト自身のものでない目的はありません。

キリストは彼の父と同じです。

ですから、私はキリストと一体であり、あなたとも一体であるはずです。

あなたに創造されたままのあなたの子以外の誰が、キリストだというのでしょう。

そして私は、私の内なるキリスト以外の何だというのでしょう。

(レッスン353)

目的はひとつ。

 

「愛」を目撃することだったのだ。

 

それ以外に目的はない。

 

何もかもを「正気」の心で見たら、「愛」しか見えない。

 

「私」の目は、何も見ていなかった。

 

形の世界で不安を追い続け、あるとかないとかに意識を使い続けていた。

 

キリストに譲ってしまう。

 

そしたら、人にも物にも濃密な愛だけが見える。

 

その中で休らい、安らう。

 

満ち満ちたぬくもりの中で。

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レッスン353

 

今日は、私の目にも、口にも、手にも、足にも、目的は一つしかない。

キリストに与えられて、世界を奇跡で祝福するために用いられることである。

 

父よ、今日私は、私のものであるすべてをキリストに与えます。

そうすれば、それらは私が彼と共有する目的に最も役立つやり方で使われるでしょう。

キリストと私は目的においてひとつにつながっているので、私だけのものは何一つありません。

こうして学びは、定められた目的地のすぐ近くまでやってきました。

いま少しの間、私はキリストの目的に役立つように、キリストとともに働きます。

それから私は自分の真のアイデンティティーの中で私自身なるものを失い、キリストが私の自己にほかならないことを認識します。

(レッスン352)

五感の目を通すと恐ろしく見えていたのに、愛で見たら、全てが満ち満ちていました。

 

どこまでもあたたかい光が続いていました。

 

これまで盲目でした。

 

形に囚われ、形ばかりに気を取られて、その不安定な、あるような無いような、そんな朧げな世界に一縷の望みをかけていました。

 

私の目を全部、聖霊に預け、かわりに見てもらいます。

 

身体を預け、心眼にゆだねます。

 

安らかさ、休らかさ、満ち満ちたぬくもりに揺蕩います。

 

真の力にゆだねます。

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レッスン352

 

裁きと愛は正反対のものである。

一方からは世界の悲しみのすべてが生じる。

もう一方からは、神ご自身の平安が訪れる。

 

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赦しは無罪性だけに目を向け、裁くことはしません。

赦しを通して、私はみもとに参ります。

裁きは私の目を眩ませ、盲目にします。

しかし、この世界では赦しに反映されている愛が、あなたの平安を再び見出す道をあなたが私に与えてくださっていることを、私に思い出させます。

この道をたどることを選ぶとき、私は贖われます。

あなたは私を慰めもなく放っておくことはされませんでした。

私は自らのうちに、あなたについての記憶と、私をそこまで導く存在の両方をもっています。

父よ、今日、私はあなたの声を聞き、あなたの平安を見出したいと願います。

自分自身のアイデンティティーを愛し、その中にあなたについての記憶を見出したいのです。

(全文)