【奇跡講座】の気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

マニュアル編 四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか Ⅶ.  寛大さ

気づきは共有の財産。

 

だから、それは、惜しみなく与えられるもの。

 

気づきは延長される。

 

その管としていたいし、それだけが可能なもの。

 

これが寛大さだとマニュアルに述べられている。

 

決して失わないものに意識を戻す、気づきのために惜しみなく与える。

 

それ以外はただの幻なのだから。

 

 

・・・

Ⅶ.  寛大さ

寛大さという言葉は、神の教師にとって特別な意味をもっている。

それはこの言葉の普通の意味とは異なる。

実は、この意味は、学ぶ必要のあるものであり、しかもきわめて注意深く学ばれなければならない。

神の教師たちの他のすべての属性と同様に、この所属も、つきつめれば信頼に基づいている。

というもの、信頼がなければ、誰も真の意味で寛大にはなれないからである。

この世界にとっては、寛大さとは、「手放す」という意味合いでの「与えてしまうこと」を意味する。

神の教師にとっては、保持するために与えるという意味になる。

このことは「テキスト」と「ワークブック」を通じて強調されてきたが、おそらくこの世界の思考からすると。これは私たちのカリキュラムの他の多くの概念と比べてかなり異色なものである。

その際立った奇妙さは、単に、それが世界の思考とは逆になっているということの明白さの中にある。

可能な限り最も明確な形で、また最も単純なレベルにおいて、この「寛大」という言葉は、神の教師たちの世界の双方にとって、正反対のことを意味している。

 

神の教師は、自己の利益のために寛大になる。

しかし、これはこの世界が語る自己のことを指しているのではない。

神の教師は、他者に与えることのできないようなものは、何もほしいと思わない。

なぜなら、そうしたものはその定義からして自分にとって無価値であることがわかっているからである。

何のために彼がそれをほしがったりするだろう。

それのせいで、彼は失うことになるだけである。

何も得ることはできない。

だから彼は、自分だけが保持できるものは求めない。

なぜなら、それは確実に損失をもたらすものだからである。

神の教師は苦しみたいとは思わない。

なぜ自分に苦痛を保証しょうなどと思うだろう。

しかし彼は、神からくるもののすべて、それゆえに神の子のためのものであるすべてを、自分のために取っておきたいとは思っている。

それらが、彼に属するものである。

こうしたものであれば、彼は真に惜しみなく寛大に与えることができ、永遠に自分自身のためにそれらを保護することができる。

マニュアル編 四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか Ⅵ. 防衛しない態度

強いとか弱いとか、優秀とか愚かとか、何にも生じていない。

 

その「創造」そのもの。

 

自分を作ろうと必死だったのは、この世界に限定した価値を信じていて、その価値に自分を閉じ込めようとしてきたから。

 

愚かであること、みじめであることがとにかく嫌で、必死で防衛してきたけど、愚かさとか、みじめさという価値判断そのものが、「自我」の捏造だった。

 

愚かさもみじめさも、正面から見つめられたら、その出どころは、愛でしかなかった。

 

愛に触れると、愚かさ、みじめさといった特別性は消える。

 

もちろん、その対極の、優秀さや尊大さも消える。

 

それらは全部間違っていた。

 

それをただ見過ごしたらいいだけだった。

 

本当に簡素。

 

本当にシンプル。

 

そして、得も言われぬ安堵と喜びそのものだけがある。

 

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Ⅵ. 防衛しない態度

神の教師たちは、どのようにすれば簡素でいられるかを学んできた。

彼らは真理に対抗して防衛する必要があるような夢は一つももっていない。

自分で自分を作り出そうとはしない。

彼らの喜びは、自分が誰によって創造されたかという理解から生じている。

そして、神が創造したものに防衛の必要などあるだろうか。

誰でも、防衛とは狂った幻想の愚かな番人にすぎないと充分に理解するまでは、進歩した神の教師にはなれない。

夢が怪奇になればなるほど、その防衛も激しく強力になるように見える。

しかし神の教師がついにそれらの夢を見過ごすことに合意したとき、そこには何もなかったことを見出す。

最初はゆっくりと、自分自身を欺瞞から解放していく。

しかし信頼が増すにつれて、彼はもっと早く学ぶようになる。

防衛をやめたときに訪れるのは危険ではない。

それは安全である。

平安である。

喜びである。

そして神である。

マニュアル編 四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか Ⅴ.  喜び 

無条件でした。

 

喜びに条件はないです。

 

喜びを抑えることにエネルギーを使って疲弊していました。

 

なんてことでしょう。

 

自然に逆らうのはやめます。

 

喜びは感謝と祝福の証です。

 

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Ⅴ. 喜び

 

喜びは、柔和さから必然的にもたらされるものである。

柔和さは、恐れはもはや不可能だということを意味する。

いったい何が、喜びを妨げにくることなどできるだろう。

柔和さが差し出す開かれた両手は、常に満たされている。

柔和な者たちに苦痛はない。

彼らが苦しむことはあり得ない。

どうして彼らが喜ばずにいられるだろう。

彼らは愛されており、安全ではないはずがないと確信している。

攻撃に苦しみが伴うのと同じく確実に、柔和さには喜びが伴う。

神の教師たちは神を信頼している。

そして自分たちの前を神の教師が進み、いかなる危害も訪れないようにしてくれると確信している。

神の教師たちは神からの贈り物を携えて、神の道を進む。

なぜなら、神の声がすべてにおいて彼らを導くからである。

喜びは彼らの感謝の歌である。

そしてキリストも同じように感謝しつつ彼らを見守っている。

彼らがキリストを大いに必要としているのと同じように、キリストも彼らを大いに必要としている。

救済の目的を共有するとは、何と喜ばしいことだろう!

マニュアル編 四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか Ⅳ. 柔和さ

何かに「恐れ」を感じたり、想像するときは、勘違いしているということで、そしてだからといって、自分でどうにかせずに、そのまま感覚を感じる。

 

そのうち、それは通り過ぎて、柔和さが表れる。

 

 

・・・

危害というのものは、神の教師たちとって不可能なものである。

彼らは危害を及ぼすことも、危害を被ることもあり得ない。

危害とは裁きがもたらすものである。

それは不正直な想念の後に続いて起こる不正直な行為である。

それは兄弟に対する有罪判決であり、したがって自分自身に対する有罪判決である。

それは平安の終わりであり、学びの否定である。

それは、神のカリキュラムが不在であって、狂気がそれと入れ替わっていることを実証している。

すべての神の教師が学ぶべきこと、しかも自らの訓練期間のかなり早い時期に学ぶべきことは、危害性は自分の機能についての自覚を完全に消し去るということである。

それは彼を混乱させ、怯えさせ、怒らせ、疑い深くさせる。

そして聖霊のレッスンを学習不可能にしてしまう。

また、危害は実際に何も達成できないと悟っている者たちでなければ、決して神から聞くことはできない。

危害から得られるものは何もない。

 

したがって、神の教師たちとは完全に柔和な者たちである。

彼らには柔和さという強さが必要である。

なぜなら完全な柔和さの中でこそ、救済の機能が容易になるからである。

危害を及ぼそうとする者たちにとっては、柔和さは不可能なものである。

危害というものに何の意味も認めない者にとっては、柔和さは単に自然なものであるにすぎない。

正気の者にとって、これ以上のどのような選択に意義があるだろう。

天国への道を知覚しているときに、誰が地獄を選ぶだろう。

そしていったい誰が、頼もしく一切を包み込む無限の強さである柔和さを選ぶ代わりに、危害から生じずにはいない弱さのほうを選ぼうとするだろう。

神の教師たちの力は彼らの柔和さの中にある。

なぜなら、彼らは、自分たちの邪悪な想念が生じたのは神の子からでも彼の創造主からでもないと理解したからである。

こうして彼らは自分の想念を自分たちの源である神に合一させた。

それゆえに、常に神ご自身のものであった彼らの意志には、それ自体として存在する自由がある。

マニュアル編 四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか Ⅲ. 寛容さ

問題があると見る。

困ったことがあると見る。

価値の判断をしょうとする。

 

それにより「私」という分離の世界に突入する。

「私」とは、ただの一部。

その孤立の特性を信じ込み、その分断の視点から見ると、世界に脅威を感じ、防衛の必要性を感じ、深刻さが増していく。

 

本当は何にも起こってはいない。

 

愛だけがある。

 

愛そのものだったことを忘れていた。

ただそれだけだ。

 

なんの価値判断も必要ない。

裁きは生じない。

 

「私」は見られて見過ごされていく。

 

愛に落ち、愛に溶ける。

 

・・・

 

四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか 

Ⅲ. 寛容さ

神の教師は裁かない。

裁くということは不正直になることである。

というのも、裁くということは、自分のものではない立場に就くということだからである。

自己欺瞞のない裁きはあり得ない。

裁きは、あなたが自分の兄弟について欺かれてきたことを示唆する。

それならば、あなたが自分自身について欺かれてこなかったはずがない。

裁きは信頼の欠如を示唆するものであり、そして信頼は、神の教師の全思考体系の基盤であり続ける。

それが失われるなら、彼の学びのすべてが失われる。

裁きがなければ、すべてのものごとは等しく好ましいものである。

そのとき、それ以外の判断ができる者などいないからである。

裁きがなければ、誰もがみな兄弟である。

そのとき、離れて立っている者などいないからである。

裁きは正直さを破壊し、信頼を打ち砕く。

神の教師は、裁いていながら同時に学びたいと望むことはできない。

マニュアル編 四.神の教師たちの特徴はどのようなものか Ⅱ. 正直さ

私は個ではなかった。

そうだった。

 

昨日は、個人の世界に閉じこもっていた。

 

神の子という「一貫性」。

 

全人類のための選択。

 

個人を脇によければよけるほど、「正気」の目で見渡すことができる。

 

何が大切で、何が大切ではないか。

 

形は幻だから、大切もなにも、そもそも何もない。

 

私たちは心であり、「空」そのもの。

 

何の矛盾も問題も生じようがない。

 

一点の曇りもない心に戻ろう。

 

それ以外の選択はないのだから。

 

 

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神の教師たちのその他すべての特徴が、信頼に基づいている。

ひとたび信頼が達成されたなら、他の特性も必ずもたらされる。

信頼する者たちだけが正直でいることができる。

なぜなら、彼らだけにその価値がわかるからである。

正直さとは、あなたが話すことだけあてはまるのではない。

正直さという言葉は実際には一貫性を意味する。

自ら語ることが何一つ自分の考えや行動と矛盾せず、どの考えも他の考えと対立せず、すべての行為が自分の言葉を裏切ることなく、どの言葉も他の言葉と符合している。

このような者たちが、真に正直な者たちである。

いかなるレベルにおいても、彼らは自分自身と葛藤してはいない。

したがって、彼らが他の誰かや何かと葛藤することは不可能なことである。

 

進歩した神の教師たちが経験する心の平安は、彼らの完璧な正直さによるところが大きい。

欺こうという願望のみが争いを促す。

自分自身とひとつである者は葛藤など思い描くことさえできない。

葛藤は自己欺瞞の必然的な結果であり、自己欺瞞とは不正直さである。

神の教師にはいかなる難問もない。

難問とは疑念を示唆するものであり、神の教師たちは信頼を確かな拠りどころとしているので、疑念は不可能となっている。

だから彼らは成功するのみである。

このことにおいても、すべてのことにおいてそうであるように、彼らは正直である。

彼らが成功するのみだという理由は、彼らが決して自らの意志をひとりで行うのではないからである。

彼らは全人類のために選択する。

全世界とその中にあるすべてのもののため、外観を超えた、変わらぬものにして変わり得ぬもののため、そして神の子とその創造主のために、選択する。

彼らが成功しないなどということがあり得るだろうか。

自分自身について確信しているのと同じく自分の選択についても確信している彼らは、完璧な正直さの中で選択している。

 

マニュアル編 四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか A. 信頼の進化

自我の不安定さに翻弄され続ける。

 

もう嫌だ、ほとほと嫌だ。

 

つい、馴染み深い罪意識と連動している自我という脆さの方にしがみついてしまう。

 

その弱さや卑怯さに嫌気がさす。

 

ムキになる。

 

もう、自我でいるふりはやめよう。

 

悠然さ、壮大さをゆるそう。

 

そこに落ちてしまおう。

 

ふっとそこから離れれば、確かな静けさがある。

 

確かさの中にいよう。

 

愛という今にいよう。

 

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A. 信頼の進化

 

まず最初に、彼らは「取り消しの時期」とでも呼べるような時期を通過しなければならない。

これに苦痛を伴う必要はないが、普通はそのように経験される。

あたかも、いろいろなものが取り去れていくかのように思える。

そして、それは単にそうしたものの価値の無さが認識されつつあるにすぎないということが、最初のうちはほとんど理解されない。

知覚者がものごとを別の見方で見ざるを得ない立場に置かれてない限り、どうして価値の無さが知覚され得るだろう。

彼はまだ、その転換を完全に内側においてのみ行えるところまできてはいない。

したがって、その計画は、ときには、外的な環境のように見えるものの変化を必要とすることがある。

こうした変化は常に助けになる。

ここまで学んだとき、神の教師は第二段階に進む。

 

次に、神の教師は「弁別の時期」を通過しなければならない。

これは常に幾分難しい時期である。

なぜなら、彼は自分の人生における変化は常に助けになると学んだので、今では、そうした有益性を増大させるか妨げるかという基準で、すべてのものごとを決めなければならないからである。

彼にわかってくるのは、以前に自分が価値を置いていたものごとのほどんどまでとはいかなくともその多くが、生じてくる新たな状況へと自分の学びを転移される能力を妨げるだけだということである。

そしてまた、自分が本当は無価値なものに価値を置いてきたために、損失や犠牲を恐れてそうしたレッスンを普遍化しようとしないということである。

あらゆるものごとや出来事や出会いや状況が助けになるということを理解するには、多大な学びが必要である。

この幻想の世界の中では、それらは助けになる度合いに応じてのみ何らかの実在性を付与されるべきである。

「価値」という言葉は、それ以外の何にもあてはまらない。

 

神の教師が通過しなければならない第三の段階は、「放棄の時期」と呼ぶことができる。

もしこれが「望ましいものを諦めること」と解釈されるなら、多大な葛藤が生じるだろう。

この苦渋を完全に免れる神の教師はほとんどいない。

しかし、価値あるものを価値なきものから弁別するという段階は、その次の自明のステップをも踏み出さない限り、無意味である。

それゆえに、この重視の期間は、神の教師が自分自身の最善の利益を真理のために犠牲にするように求められていると感じる時期となりやすい。

彼は今のところ、そのような要求がまったく不可能だということを悟ってはいない。

彼がこのことを学べるのは、価値なきものを実際に手放したときのみである。

そうすることにより彼は、悲嘆を予期していたところに幸せで快活な気分を見出し、何かを求められていると思っていたところで自分に授けられている贈り物を見出す。

 

そして次に「安定期の時期」が訪れる。

これは静かな時であり、この時期に、神の教師は少しの間、適度の平安の中で休息する。

ここで彼は自分が学んだことを統合する。

今や、彼には自分の学んできたことの転移価値が見え始める。

それがもつ潜在力は文字通り途方もないものであり、神の教師は今や、その中に自分の完全な脱出口があるとわかるところまで進歩している。

「自分の望まないものは手放し、自分の望むものは保持する」。

この当たり前のことは何と単純だろう!

そして何とたやすく実行できることだろう!

神の教師にはこの小休止の時期が必要である。

彼はまだ自分で思っているほど遠くまで来てはいない。

しかしさらに前進する準備ができたなら、彼は力強い仲間たちを傍らにして進むことになる。

ここで少しの間休息し、さらに前進する前に彼らを集めるのである。

ここから先は一人で進むのではない。

 

次の段階は実に「不安定な時期」である。

今になって、神の教師は何が価値あるもので何が価値なきものか、自分は真にわかっていなかったと理解しなければならない。

その時点までに真に学んだことは、自分は価値なきものは望まず、価値あるものは望むということだけだった。

しかし彼自身による弁別は、自らにその相違を教えるには無意味だった。

彼自身の思考体系の核心をなす犠牲という概念が、彼が正しい判断をすることをまったく不可能としていた。

意欲というものを学んだと自分では思っていたが、今では、その意欲が何のためのものかを自分では知らないということがわかる。

しかも、今や彼は、きわめて長期にわたり達成不可能であり続けるかもしれない状態を、達成しなければならないのである。

彼はすべての判断を脇に置くことを学ばねばならず、あらゆる状況下で自分は真に何を望むかということだけを問わねばならない。

こうした方向に向かう一歩一歩がしっかりと強化されていなければ、実際それは困難なものとなることだろう!

 

そして最後に、「達成の時期」がある。

学びが統合されるのは、ここにおいてである。

以前はただの影と見えていたものが、今ではしっかりと習得されたものとなり、静穏な時だけでなく、あらゆる「非常事態」においても頼りにできるものとなる。

実のところ、静穏さこそがその習得の結果であり、正直な学習と一貫性ある思考と充分な転移がもたらした成果である。

これが真の平安の段階である。

ここにこそ、天国の状態が余すことなく反映されているからである。

ここからは天国への道は開かれており、容易である。

実は、それはそこにある。

もし心の平安がすでに完全であるなら、いったい誰がどこかに「行こう」としたりするだろう。

そして誰が、静穏さをもっと望ましい何かに取り替えようとしたりするだろう。

いったい何が、これ以上に望ましいものであり得るだろう。