問題があると見る。
困ったことがあると見る。
価値の判断をしょうとする。
それにより「私」という分離の世界に突入する。
「私」とは、ただの一部。
その孤立の特性を信じ込み、その分断の視点から見ると、世界に脅威を感じ、防衛の必要性を感じ、深刻さが増していく。
本当は何にも起こってはいない。
愛だけがある。
愛そのものだったことを忘れていた。
ただそれだけだ。
なんの価値判断も必要ない。
裁きは生じない。
「私」は見られて見過ごされていく。
愛に落ち、愛に溶ける。
・・・
四. 神の教師たちの特徴はどのようなものか
Ⅲ. 寛容さ
神の教師は裁かない。
裁くということは不正直になることである。
というのも、裁くということは、自分のものではない立場に就くということだからである。
自己欺瞞のない裁きはあり得ない。
裁きは、あなたが自分の兄弟について欺かれてきたことを示唆する。
それならば、あなたが自分自身について欺かれてこなかったはずがない。
裁きは信頼の欠如を示唆するものであり、そして信頼は、神の教師の全思考体系の基盤であり続ける。
それが失われるなら、彼の学びのすべてが失われる。
裁きがなければ、すべてのものごとは等しく好ましいものである。
そのとき、それ以外の判断ができる者などいないからである。
裁きがなければ、誰もがみな兄弟である。
そのとき、離れて立っている者などいないからである。
裁きは正直さを破壊し、信頼を打ち砕く。
神の教師は、裁いていながら同時に学びたいと望むことはできない。