一は、全部。
静かな確信。
すべてが喜び。
目のまえのすべてに神がある。
ありとあらゆるものごとは愛。
アメージング!
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神の教師の信義の度合いが、このカリキュラムにおける彼の進歩の目安である。
彼は今も、生活のいくつかの側面だけを選んで自らの学びの対象とし、他の側面は切り離しておこうとしているのだろうか。
そうであれば、彼の進歩は限定されており、彼の信頼もまだしっかりと確立されてはいない。
信義とは、神の言葉はいくつかのものごとだけではなくすべてを正してくれるという、神の教師による信頼である。
通常、彼の信義は、はじめのうちはいくつかの問題のみに向けられ、しばらくは用心深く限定されたものにとどまる。
すべての問題を手放して一なる答えに委ねるということは、この世界の思考を全面的に逆転させることである。
そしてそれのみが信義である。
それ以外のものは、真にその名にふさわしくない。
しかし、いかにわずかな信義であれ、そのどれもが、達成するだけの値打ちがある。
準備が整った状態とは、「テキスト」も述べているように、熟達そのものではない。
しかし、真の信義は逸脱しない。
首尾一貫しているので、完全に正直である。
揺るがないので、信頼に満ちている。
恐れの不在に根ざしているので、柔和である。
確信しているので喜びにあふれている。
そして自信があるので寛容である。
すなわち、信義はそれ自体の中に、神の教師の他の属性と併せもっているのである。
それは、神の言葉と、神の子についての神による定義とを受け入れているということを示唆している。
真の意味での信義が常に向けられている対象は、神と神の子である。
信義は神と神の子のほうを見て、見つかるまで探し続ける。
そこには防衛しない態度が自然に備わっており、喜びがその状態である。
そして見つけられたなら、すべての信義を捧げられるべきものの上だけに、静かな確信をもってとどまり続ける。