身体の目で見ている世界は「夢」。
その大元だけがリアル。
大元の確かさだけが実際にあるだけだ。
「夢」を「夢」だと認め、「夢」ということに意識的であればいい。
真実に触れると、なにも話せなくなる。
その必要がなかったんだと感じる。
私は私を譲った。
身体は神を賛美するために使われる。
確かさだけを見ている。
・・・
十二.世界を救うためには、何人の神の教師が必要か
この問いの答えは「ひとり」である。
学びを完了した全一にして完全無欠なひとりの教師だけで充分である。
性別されて救われたひとりが、神の子そのものである自己となる。
常に完全に霊であった彼は、今ではもう自分を肉体と見なすことも、肉体の中に居ると見なすことさえもしない。
それゆえに、彼は無限である。
そして無限であるから、彼の想念は永遠にいつまでも神の想念とつながっている。
彼自身についての彼の知覚は神の審判に基づいており、彼自身の判断に基づいてはいない。
そのようにして彼は神の意志を共有し、未だに惑わされたままの心たちに神の想念を運ぶ。
彼は永遠に一なるものである。
なぜなら、彼は神に創造されたままの彼だからである。
彼はキリストを受け入れたのであり、救われている。
こうして、人の子が神の子となる。
これは実際には変化ではない。
心が変わったのである。
外的なものは何一つ変わらない。
しかし、今や、内的なものの一切が神の愛だけを反映している。
心が処罰の原因を見なくなるので、もはや神が恐れられることはあり得ない。
神の教師は大勢いるように見えるが、それはこの世界の必要がそうしたものだからである。
だが、一つの目的、しかも神と共有する一なる目的においてつながっている彼らが、どうして互いから分離していられるだろう。
それならば、彼らが数多くの形で現れるとしても、それが何だというのだろう。
彼らの心はひとつであり、彼らの合一は完全である。
そして神は今や一なる存在としての彼らを通して働く。
それが彼らの本性だからである。
なぜ多数という幻想が必要なのだろうか。
その理由は単に、妄想に惑わされている者にとって、実相は理解できるものではないからである。
神の声をわずかでも聞くことのできる者はきわめて少数であり、その彼らでさえ、神からのメッセージを自分に与えた霊を通して、直接それらのメッセージを伝達することはできない。
自らを霊であると悟っていない者たちへのコミュニケーションを可能にするような、媒体が必要になる。
すなわち、彼らにも見ることのできる肉体である。
そして、真理が彼らの中に浮上させることになる恐れを介さずに、彼らが理解し耳を傾けることのできる声である。
恐れずに歓迎される場所にのみ真理は入ってこられるということを、忘れてはならない。
同様に、彼らの一体性はじかに認識されることは不可能なので、神の教師には肉体が必要である。
だが、彼らを神の教師とするのは、肉体の正しい目的についての彼らの認識である。
彼らがこの仕事で進歩するにつれて徐々に確信を強めていくのは、肉体の機能とは、神の声が肉体を介して人の耳に語れるようにすることだけだということである。
そしてその耳は聞く者の心へと、この世のものではないメッセージを運び、そのメッセージの源ゆえに、心は理解するだろう。
この理解から、この新任の神の教師の中に、肉体の真の目的とは何かについての認識が生まれる。
それは、肉体にとって真に存在する唯一の用途についての認識である。
このレッスンだけで、一致の想念を招き入れるに充分であり、ひとつであるものがひとつとして認識される。
神の教師たちは分離という幻想を共有しているように見えるが、そうした外観にもかかわらず、彼らが肉体を用いる目的のゆえに、その幻想を信じてはいないことになる。
中心となるレッスンは常に次の点にある。
すなわち、肉体は、あなたがそれを何のために使うかという目的に即したものとなる。
肉体を罪のため、また罪と同じものである攻撃のために使うなら、あなたは肉体を罪深いものと見る。
それは罪深いものであるから弱いものであり、弱いものであるから苦しみ、死んでしまう。
神の言葉をもたない者に神の言葉をもたらすために使うなら、肉体は神聖なものとなる。
神聖であるから病気にはなり得ず、死ぬこともあり得ない。
その有用性がなくなったとき、それは横たえられる。
それだけのことである。
心がこの決断をする。
肉体の状態を左右する決断のすべてを行うのが心だからである。
ただし、神の教師はひとりでこの決断をするのではない。
ひとりで決断するなら、肉体を神聖に保つ目的とは別の目的を、肉体に与えることになる。
神の声は、神の教師の機能とは何かを彼に告げるのと同じように、彼がその役割を果たし終えたときも、彼にそのように告げるだろう。
彼は去るにしても、留まるにしても、苦しむことはない。
今や、彼にとって病気は不可能なものである。
一体性と病気は共存できない。
神の教師たちは、しばしの間、夢を眺めることを選ぶ。
それは意識的は選択である。
なぜなら、すべての選択が、それがもたらす結果を充分に自覚した上で意識的になされることを、彼らは学んだからである。
夢はそれに反論する。
しかし、夢の正体をひとたび認識したなら、いったい誰が、夢を信に置こうとするだろう。
夢を見ているという自覚こそが、神の教師の真の機能である。
彼らは、夢の中の人影が行き来し、千変万化し、苦しみ、死んでゆくのを見つめる。
だが、彼らは自分が見ているものに騙されない。
夢の中の人影を病んで分離していると見ることも、健康で美しいと見ることも、同じく実在性のないことだと、認識している。
一体性のみが、夢からのものではない。
そしてこれこそが、神の教師たちが夢の背後にあるものとして認識しているものであり、あらゆる外見を超えたものであるが確かに彼らのものだと認めているものである。