【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

マニュアル編 十七.神の教師は、魔術的想念にどのように対処すべきか

「魔術的想念」は、この世界をリアルだと思って、この世界の中での人や物事を動かすことに力を使うこと。

 

でも、だからといって、「魔術的想念」を信じている人を、裁いて、否定したり、咎めたりすることは、「魔術」の世界がリアルだとでっちあげられることになる。

 

「魔術的想念」にとどまっている人を「助けたい」という気持ちがあるとき、わたしはまだこの世界になんらかの期待がある。

 

だけど、この世界に「助けなければならない人」などいない。

 

みな、すでに救われている。

 

そして、その本人がそのことに気づくだけ。

 

そのとき、一緒に笑い合えばいい。

 

「早く一緒に笑い合いたい」と焦っていたとき、わたしはこの世界にまだ期待していたのだ。

 

待つ必要はない。

 

期待も必要ない。

 

待ったり、期待したり、苛立ったりしているときは、すでに成就していた愛を認めていないことに気づく機会。

 

それを兄弟が教えてくれている。

 

そう気づくと、ありがたさだけがある。

 

自由がある。

 

永遠の慈しみに満ちる。

 

「魔術的想念」と出会っても、リラックスと祝福だけでいい。

 

これが正真正銘の素直な反応。

 

この素直さの中にとどまりたい。

 

どちらにしても、わたしたち、愛の中にいる。

 

この愛から逃げることは不可能。

 

そういう意味で、自我は絶望的なのだ。

 

どんな魔術の深い夢を見ていようと、それには何の力もない。

 

リラックスし、笑い合い、祝福であることにためらわないことを止めないでいたい。

 

今、愛の中で満たされてる。

 

このそのものの賛美と共にいる。

 

 

・・・

十七.神の教師は、魔術的想念にどのように対処すべきか

 

これは教師と生徒にとって、要となる質問である。

もしこの問題が誤って扱われているなら、神の教師は自分自身を傷つけ、自分の生徒も攻撃したことになる。

これは恐れを強め、双方にとって魔術を非常に実在性のあるものに見せる。

それゆえに、魔術にどのように対処するかが、神の教師が習得すべき主要なレッスンとなる。

ここにおける彼の最初の責任は、それを攻撃しないことである。

もし一つの魔術的な考えが何らかの形の怒りを喚起するとしたら、神の教師は罪を信じる自分の信念を強めてしまい、自分自身に有罪宣告したと思って間違いない。

また彼は、憂鬱、苦痛、恐れ、災厄が自分のもとに訪れることを自分で求めたということも、確信してよい。

それならば、彼が教えたいのはこのようなことではないと、彼に思い出させよう。

なぜなら、彼が学びたいことはこのようなことではないからである。

 

けれども、魔術を強化するような形で魔術に応答したくなる誘惑というものはある。

しかも、これは必ずしも常にそれとわかるようなものではない。

実はそれは、助けたいという願望の背後に容易に隠されてしまうことがある。

この二重の願望が、その助けをほとんど価値のないものとし、望ましくない結果へと導かずにはいない。

さらに忘れてならないのは、もたらされる結果は常に教師と生徒の両方に訪れるということである。

あなたが与えるものは自分自身に与えているにすぎないと、何度強調されてきたことだろう。

このことは、神の教師が自分の援助を必要としている者たちに差し出す助けの種類において、何よりもよく示されるのではないだろうか。

ここにおいて、彼への贈り物が最もはっきりと彼に与えられる。

なぜなら、彼は自分自身のために選んだものだけを与えることになるからである。

そしてこの贈り物の中に、聖なる神の子についての彼自身による審判がある。

 

誤りを訂正するには、それが一番よく目につくところで行うのが最も容易である。

そして、誤りというものは、それがもたらす結果によって認識できる。

真に教えられたレッスンは、一つの意図を共有した教師と生徒を、ただ解放に導くだけである。

攻撃が入りこめるのは、別々のゴールについての知覚が侵入したときだけである。

そして、結果が喜び以外のものであるなら、確かにそれが侵入したに違いない。

教師がもつ単一の目標が、生徒の分割されたゴールを一つの方向に向かわせ、助けを求める叫びかけが生徒の唯一の懇願となる。

そうなれば、その懇願にはただ一つの答えで容易に応答することができるようになり、この答えが教師の心に確実に入ってくる。

そこから、それが生徒の心を照らし、彼の心を教師の心とひとつにする。

 

誰も事実に対して怒ることはできないと憶えておくことが、おそらく役に立つだろう。

否定的な感情を引き起こすのは常に、解釈である。

たとえ、事実のごとく見える何かがそうした感情を正当化しているように見えていても、それとは無関係である。

また、喚起されている怒りがどのくらい激しいかということとも、無関係である。

その怒りは、はっきりと認識することすらできないような単なる軽いいらだちかもしれない。

あるいはまた、激しい激怒の形をとり、それに従って暴力の考えが空想されたり、目に見えるように行動に移されたりするかもしれない。

そうしたことは問題にならない。

これらの反応はすべて同じものである。

それらはみな真理を覆い隠すのであり、このことは決して程度の差の問題とはなり得ない。

真理は明白であるか、そうでないか、どちらか一方でしかない。

それが部分的に認識されることはあり得ない。

真理を自覚していない者は、幻想を見る以外にない。

 

知覚された魔術的想念に対する反応としての怒りが、恐れの根本的原因である。

この反応が何を意味するかよく考えてみなさい。

そうすれば、この世界の思考体系においてそれが中心的な位置を占めていることが明らかになる。

魔術的な考えは、それが一つでも存在しているだけで、神からの分離を認めていることになる。

それが最も明らかな形で述べられていることは、自分が神の意志に反抗できる分離した意志をもっていると信じる心は、自分はそれをうまくやり遂げられるとも信じているということである

このようなことはおよそ事実ではあり得ないということは、明白である。

しかし、それを事実であるかのように信じることができるということも、同様に明白である。

そしてここに、罪悪の起源がある。

神の地位を横領し、それを自分のものとする者には、今や不倶戴天の「敵」がいることになる。

そして彼はひとりで自分を守らねばならず、決して静まらない憤激と、飽くことなき復讐心から自分自身を安全に守るために、盾を作り出さなければならない。

 

このような不公平な戦いが、どうして解決され得るだろう。

それがもたらすものは死に違いないのだから、それが終わることは避けられない。

それならば、自分を防衛できるものがあると信じることなど、どうしてできるだろう。

ここで再び、魔術に助けてもらわねばならない。

戦いのことは忘れてしまえ。

それを事実として受け入れて、それから、それを忘れてしまえ。

自分に勝ち目がないということは思い出してはいけない。

「敵」の巨大さについても思い出さず、それと比べた自分の虚弱さについても考えてはいけない。

自分の分離を受け入れるのはいいが、それがどのようにして生じたかは思い出してはいけない。

自分は戦いに勝ったと信じるのはいいが、自分の大いなる「敵」が実際には誰だったかについては少しでも覚えていてはいけない。

こうして自分の「忘却」をその存在に投影することで、あなたには、その存在もまたそれを忘れてしまったように思える。

 

しかしこうなると、すべての魔術的想念に対するあなたの反応はどのようなものとなるだろう。

それらは、あなたが隠していただけで手放してはいなかった眠れる罪悪感を、再び目覚めさせることにしかなり得ない。

その一つひとつが、あなたの怯えた心に向かってはっきりと次のように言う。

「あなたは神の地位を横領した。神がそれを忘れたと思ってはならない」。

ここに、神に対する恐れが最も歴然と表現されている。

なぜなら、その考えの中で、罪悪感はすでに、狂気を神の玉座に据えてしまったからである。

そうなると、望みは絶たれてしまう。

殺すしかない。

今や、ここに救済がある。

怒った父親が罪を犯したわが子を追いかける。

殺すか、殺されるか、選択できるのはこれだけだからである。

これ以外に選択肢はない。

なぜなら、すでに為されたことは、もはやそれ無しですませることはできないからである。

染みついた血痕は決して消すことはできず、この血痕を帯びている者は誰でも死ぬ以外にない。

 

この絶望的状況に、神は教師たちを遣わす。

彼らは神からの希望の光を運ぶ。

脱出を可能にする方法がある。

それは学ぶことも教えることもできるが、それには忍耐と多大な意欲が必要である。

それを前提とする限り、このレッスンの明らかな単純さは、暗い地平線を背景にした真っ白な光のように、くっきりと浮かび上がる。

それはまさにそうしたものだからである。

怒りは事実からではなく解釈から生じるというのなら、怒りは決して正当化できない。

たとえぼんやりとでもこのことが把握されたなら、道は開かれる。

今や、次の一歩を踏み出すことが可能になる。

ついに解釈を変えることができる。

魔術的想念は、咎められる必要はない。

なぜなら、それらには実際に罪悪を生じさせる力はないからである。

それゆえに、それらは看過させ得るものであり、真の意味で忘れることのできるものである。

 

狂気は、恐ろしく見えるだけである。

真理においては、それには何を作り出す力もない。

その僕となる魔術と同様、それは攻撃することも保護することもしない。

それを見てその思考体系を認識するということは、無を見ることである。

無が怒りを喚起できるだろうか。

できはしない。

だから、神の教師よ、怒りとは、存在していないものを一つの現実として認識することだと覚えておきなさい。

しかし、その怒りは、あなたがそれを事実として信じているということの確かな証拠である。

そうなったときあなたは、自分で自分自身の解釈に応答したのであり、その解釈は自分が外界に投影したものだということがわかるまでは、脱出不可能となる。

この残虐な剣を、今、あなたから取り除いてもらいなさい。

死は存在しない。

この剣は存在していない。

神に対する恐れは無因のものである。

しかし、神の愛は、あらゆる恐れを超える一切のものの原因であり、したがって、永遠に実在し、常に真実である。