気づきは共有の財産。
だから、それは、惜しみなく与えられるもの。
気づきは延長される。
その管としていたいし、それだけが可能なもの。
これが寛大さだとマニュアルに述べられている。
決して失わないものに意識を戻す、気づきのために惜しみなく与える。
それ以外はただの幻なのだから。
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Ⅶ. 寛大さ
寛大さという言葉は、神の教師にとって特別な意味をもっている。
それはこの言葉の普通の意味とは異なる。
実は、この意味は、学ぶ必要のあるものであり、しかもきわめて注意深く学ばれなければならない。
神の教師たちの他のすべての属性と同様に、この所属も、つきつめれば信頼に基づいている。
というもの、信頼がなければ、誰も真の意味で寛大にはなれないからである。
この世界にとっては、寛大さとは、「手放す」という意味合いでの「与えてしまうこと」を意味する。
神の教師にとっては、保持するために与えるという意味になる。
このことは「テキスト」と「ワークブック」を通じて強調されてきたが、おそらくこの世界の思考からすると。これは私たちのカリキュラムの他の多くの概念と比べてかなり異色なものである。
その際立った奇妙さは、単に、それが世界の思考とは逆になっているということの明白さの中にある。
可能な限り最も明確な形で、また最も単純なレベルにおいて、この「寛大」という言葉は、神の教師たちの世界の双方にとって、正反対のことを意味している。
神の教師は、自己の利益のために寛大になる。
しかし、これはこの世界が語る自己のことを指しているのではない。
神の教師は、他者に与えることのできないようなものは、何もほしいと思わない。
なぜなら、そうしたものはその定義からして自分にとって無価値であることがわかっているからである。
何のために彼がそれをほしがったりするだろう。
それのせいで、彼は失うことになるだけである。
何も得ることはできない。
だから彼は、自分だけが保持できるものは求めない。
なぜなら、それは確実に損失をもたらすものだからである。
神の教師は苦しみたいとは思わない。
なぜ自分に苦痛を保証しょうなどと思うだろう。
しかし彼は、神からくるもののすべて、それゆえに神の子のためのものであるすべてを、自分のために取っておきたいとは思っている。
それらが、彼に属するものである。
こうしたものであれば、彼は真に惜しみなく寛大に与えることができ、永遠に自分自身のためにそれらを保護することができる。