「開けっ放し」。
空気も水も、どこにでも、何の条件もなく入り込んでいく。
それと同じ。
当たり前すぎて見落としてきたけど、それ以上でもそれ以下でもない。
開かれ、くつろがれ、full、満ち満ちている。
毎瞬が、新しく。
開かれ続けている。
・・
「開かれた心の状態」になるためには、何かしらの完璧さを持たなければならないと思い込んでいただけ。
その強固な価値判断をポトリと手から放してしまう。
無条件。
それが開かれた心。
究極の望み。
・・・
開かれた心の状態は、おそらく神の教師が最後に習得する属性であり、これと赦しとの関連性が認識されたとき、この属性の重要性が容易に理解される。
開かれた心の状態は、裁きの欠如からもたらされる。
裁きは神の教師に対して心を閉ざし、開かれた心の状態は彼を招き入れる。
咎めは神の子を邪悪だと裁き、開かれた心の状態は、彼を代弁して語る声が神に代わって神の子を審判することを可能にする。
神の子に投影された罪悪は彼を地獄に送るが、開かれた心の状態はキリストの姿を神の子へと延長させる。
開かれた心の状態にある者たちだけが平安でいられる。
彼らだけにその理由がわかるからである。
開かれた心の状態にある者たちは、どのようにして赦すのだろうか。
彼らは赦しを妨げるすべてのものを手放した。
彼らはこの世界を真に放棄し、新しさと喜びに満ちた世界が自分に回復されるままにした。
それは、以前には思い描くこともできなかった栄光に満ちた変化だった。
今や、何一つ、以前のままではない。
以前はどんよりとして正気がないと思えていたものが、今ではすべてきらめいている。
そして何よりも、脅威が去ったので、すべてのものが歓迎の手を差し伸べている。
キリストの顔を隠すような雲は一つも残っていない。
今やゴールは達成された。
赦しが、このカリキュラムの最後のゴールである。
それが、すべての学びをはるかに超えているものへと続く道を整える。
このカリキュラムは、それ自体の正当なゴールを超えるための努力はしない。
赦しだけがその単一の目標であり、すべての学びが最後にはそこに収束する。
実際のところ、それで充分である。
神の教師たちの属性には神の子が受け継いでいる賜物は含まれていないということに、あなたは気づいたのかもしれない。
愛、無罪性、完全無欠性、知識、永遠の真理といった言葉は、ここには見当たらない。
そうした言葉は、ここではまったくふさわしくない。
神が授けたものは、私たちのカリキュラムをはるかに超えており、それが存在するところでは、学びはただ消え去るのみである。
しかしその現在が覆い隠されている間は、このカリキュラムに焦点を合わせることは適切である。
真の学びを世界にもたらすことが、神の教師たちの機能である。
なぜなら、それこそがこの世界においては「真の学び」だからである。
神の教師たちには、完全な赦しという福音を世界にもたらす機会が与えられている。
彼らはまことに幸いなる者である。
彼らこそ、救済をもたらす者だからである。