苦しむことに価値を見ていた。
苦しまないことに罪悪を感じていた。
この感覚はなかなか抜けないものだった。
苦しまないことで仲間外れにされてしまうような感覚があった。
周りと同じように苦しまないと居場所がない。
でも、苦しめない。
周りとつながれない。
そんなジレンマ。
全部、勘違いだった。
私がそう見ることで、そのジレンマの世界を作っていた。
視点を明け渡す。
知覚を落とす。
苦しみは幻だった。
生命があった。
・・・
1.癒しには、病気という幻想が何のためのものかについての理解が伴う。
これが無ければ癒しは不可能である。
Ⅰ. 病気の目的と知覚されているもの
癒しは、苦しんでいる者がもはや苦痛に何の価値も見なくなった瞬間に達成される。
苦しむことが自分に何かをもたらすと考え、しかもその何かとは自分にとって価値あるものだと思った者でない限り、いったい誰が苦しみを選択しようとするだろう。
彼はそれを、より大きな値打ちのある何かのために支払うわずかな代価だと考えているに違いない。
なぜなら、病気とは一つの選択であり、決断だからである。
それは、弱さが強さであると誤って確信し、弱さを選択することである。
こうしたことが起こると、真の強さは脅威と見なされ、健康は危険と見なされる。
病気とは、神の子を父の玉座につかせようとして、狂気のうちに考案された一つの方法である。
神は外側にあり、獰猛かつ強力で、すべての力を自分に保持すべく躍起になっていると見なされる。
神の死によってのみ、神の子が神を征服できるということになる。
そしてこの狂った確信の中では、癒しは何を意味することになるだろうか。
それは、神の子の敗北と、彼に対する父の勝利を象徴する。
それは、彼が自分の「生命」を守るために、自分自身から隠しておこうとするすべてを意味する。
もし彼が癒されるなら、彼には自分の理想に対する責任があることになる。
そして自分の想念に責任があるというのなら、彼は殺されることになり、彼がいかに弱く哀れな存在であるかが彼自身に証明されるだろう。
しかし、もし彼が自ら死を選ぶなら、彼の弱さは彼の強さということになる。
かくして彼は、神が与えようとするものを自分で自分に与え、創造主の座を完全に横領したことになる。