この章の言葉を、ちゃんと自分に受け取る機会は「今」だったのかと。
ゆるしを受け入れた分だけ、理解が深まる。
ずっとジレンマに陥っていた。
「神の言葉」を受け取っているのに、躊躇して、表せない。
なぜなら、自我の世界で生きていけなくなるから。
自我の世界から仲間外れにされる。
でも、これこそが杞憂なのだ。
「神」、すなわち「愛」へ、「全体」へ深まっていくだけなのだから。
それを許可しよう。
ちゃんと許可してしまおう。
・・・
二十一.癒しにおける言葉の役割は何か
厳密に言えば、言葉は癒しにおいてまったく何の役にも果たさない。
動因となるものは祈りであり、すなわち、求めることである。
あなたが求めるものを、あなたは受け取る。
しかし、これは衷心の祈りのことであって、祈るときにあなたが用いる言葉のことではない。
ときには、言葉と祈りが矛盾していることもあれば、ときには、一致することもある。
これは問題ではない。
神は言葉を理解しない。
言葉というものは、分離した心が自らを分離の幻想の中にとどめておくために作り出したものだからである。
言葉は役にたつこともある。
とりわけ初心者には、集中を助けることや、雑念の除去もしくは少なくとも制御を容易にすることに役立つ。
しかし、言葉は象徴の象徴にすぎないということを、忘れてはならない。
したがって、言葉は実相から二重に隔てられている。
象徴であるから、言葉はきわめて具体的に何かを指し示す。
最も抽象的な言葉と思えるときでさえ、心に浮かぶ映像は非常に具体的なものになりやすい。
その言葉と連動して特定の指示対象が心に浮かんでこない限り、その言葉には実用的な意味が皆無であるか、ほとんどないに等しく、したがって、癒しのプロセスの助けにはならない。
衷心の祈りは実際には具体的なものごとを求めているわけではない。
それは常に何らかの種類の体験を要求しており、求められている特定のものごとは、求めている者の見解によれば望ましいとされる体験を、運んでくるものである。
ということであれば、言葉とは、求められているものごとの象徴であるが、それらのものごと自体は、望まれている体験を表象しているにすぎない。
この世界のものごとを求める祈りは、この世界の体験をもたらす。
もし衷心の祈りがこれを求めるなら、それは受け取られることになるがゆえに与えられる。
衷心の祈りが、それを願う者の知覚において叶えられないままとなることはあり得ない。
彼が不可能なことを求めたり、存在しないものを欲しいと思ったり、心ひそかに幻想を探し求めたりする場合も、それらすべてが彼のものとなる。
彼の決断の力が、彼の要求する通りにそれを彼に提供する。
このことの中に、天国と地獄がある。
眠れる神の子には、ただこの力が残っているだけである。
それだけで充分である。
彼の言葉は問題ではない。
神の言葉のみに意味がある。
なぜなら、それは、人間による象徴をまったくもたないものを象徴しているからである。
聖霊のみが、この言葉が何を意味するのかを理解している。
そしてこれも、それだけで充分である。
それでは神の教師は教える際に、言葉の使用を避けるべきなのだろうか。
決してそうではない!
まだ沈黙の中では聞くことのできない多くの者たちがいるので、彼らには言葉を通して伝えなければならない。
しかし、神の教師は、新しい方法で言葉を使うことを学ばなければならない。
彼は何を言うかを自分で決めることをやめることによって、自分の言葉を選んでもらう方法を、徐々に学んでいく。
このプロセスは単に、ワークブックの中の「私は一歩退いて、神に導いてもらう」というレッスンの一つの特別な形にすぎない。
神の教師は、差し出された言葉を受け入れ、受け取った通りにそれを与える。
彼は自分の語ることの方向を制御することはしない。
彼は耳を傾け、聞き、そして話す。
神の教師の学びのこの側面における主要な妨げは、自分の聞いていることの妥当性について彼が抱く恐れである。
そして彼に聞こえることは、実際かなり驚くべきことであるかもしれない。
またそれは、彼が知覚している限りでは、提示されている問題にまったく無関係と思えたり、実際、かなり気まずいと見えるような状況にこの教師を直面させたりするかもしれない。
こうしたことのすべては何の価値もない判断である。
それらは彼自身の判断であり、彼が捨て去ろうとしている貧弱な自己知覚から生じているものである。
あなたに訪れる言葉について、判断を下してはならない。
そうではなく、自信をもってそれらを与えなさい。
それらはあなた自身の言葉よりもはるかに賢明なものである。
神の教師たちの使う象徴の背後には神の言葉がある。
そして神ご自身が、彼らが使う言葉に神の霊の力を授け、それらを無意味な象徴から天国からの呼びかけそのものへと引き上げる。