今、マニュアルだけに集中できていて、深く心に浸みていきます。
これまでの「気を取られていた」状態とは、「今」以外のどこかに意識が向いているわけで、それはどうしてか?というと、ここ以外のどこかの方が重要だ、価値がある、と思い込んでいるから。
未来や過去に期待をしてる。
でも、それが思考の仕業。
相変わらず思考してても、その思考に取り合わずに、静けさに飛び込む。
「とぽん」。
おぉ。
なにもかもが完全。
・・
「死」は思考が作った。
本当にそうだ。
生命以外になにもない。
・・・
二十.神の平安とは
この世のものではない平安があると言われてきた。
それはどのようにして認識されるのだろうか。
どのようにして見つかるのだろうか。
そして見つかったなら、どうすればそれを維持できるのだろうか。
これらの質問はそれぞれ、この道における別々の段階を反映しているので、一つずつ考えてみよう。
まず最初に、どうすれば神の平安を認識できるのだろうか。
神の平安は、まず、一つのことによって認識される。
それは、それがこれまでのすべての体験とはあらゆる点においてまったく違っている、ということである。
それ以前に起こったことは何一つ、心に喚起されることがない。
過去からの連想はまったく伴わない。
それはまったく新しいものである。
もちろん、このことと過去のすべてのこととの間に対照性はある。
しかし、奇妙にも、それは真の相違による対照性ではない。
過去はただ消え去り、その代わりに、永遠の静けさがある。
それだけである。
最初に知覚された対照性はただ過ぎ去った。
静けさが広がり、すべてを包み込んでいる。
この静けさはどうすれば見つかるだろう。
その条件を探し求める者なら、誰でも必ず見つけることができる。
怒りのあるところに神の平安は決して訪れない。
なぜなら、怒りは、平安が存在するということを否定せざるを得ないからである。
いかなる形や状況においてであれ怒りを正当化できるものと見なす者は、平安は無意味だと宣言しており、平安は存在し得ないと信じている。
この状態では平安は見つからない。
それゆえに、赦しこそが、神の平安を見つけるための必要条件なのである。
それだけではなく、赦しがあれば、そこには必ず平安もある。
攻撃以外の何が、争いの対極だろう。
ここに、最初の対照性が、明確に、際立って見えている。
だが、平安が見出されたときには、争いは無意味である。
そしてそのときには、葛藤のほうが、存在しない非実在のものと知覚される。
ひとたび神の平安が見出されたなら、それはどのようにして保持されるのだろうか。
いかなる形においてであれ戻ってくる怒りは、再び重たい垂れ幕を下ろすことになる。
そして、平安など存在し得ないという信念が確実に戻ってくる。
再び、争いが唯一の現実として受け入れられてしまう。
このときあなたは、もう一度、剣を置く必要があるのだが、自分ではそれをまた手に取っていることに気づいていない。
しかし、それを持っていなかったときにはどのような幸せが自分のものであったか、そのことをかすかにでも思い出すにつれ、自分を防衛するためにまた剣を手にしたに違いないとわかるようになってくる。
そこでしばらく静かにして、次のことを考えてみなさい。
自分が望むのは葛藤だろうか、それとも神の平安のほうがよりよい選択肢だろうか。
どちらのほうが自分により多くを与えるだろうか、と。
静かな心は、小さな贈り物ではない。
あなたは死を選ぶより、むしろ生きることを望むのではないだろうか。
生きることは喜びであるが、死はただ涙を流すのみである。
あなたは、自分が作り出したものからの逃げ道を、死の中に見ている。
しかし、あなたが見ていないことがある。
それは、自分自身が死を作り出したということ、そして、死は終焉の幻想にすぎないということである。
死が逃げ道であるはずがない。
生命の中に問題が存在しているわけではないからである。
生命に対極はない。
それは神のものだからである。
生と死は相反するもののように見えるが、その理由は、あなた自身が、死が生命を終わらせると決めたからである。
世界を赦しさえすれば、あなたは、神が創造した一切に終わりはなく、神が創造しなかったものは実在しないということを理解するだろう。
この一文の中に、このコースが要約されている。
この一文の中に、私たちの練習が進むべき唯一の方向が示されている。
そしてこの一文の中に、聖霊のカリキュラム全体が、まさにありのままに明示されている。
神の平安とは何だろう。
それは、神の意志にはまったく対極がないという単純な理解であり、それ以上のものではない。
神の意志と矛盾していながら、それでも真実である想念というものはない。
神の意志とあなたの意志との間の相違は、実在するものであるかに見えているだけである。
真理においては、葛藤など存在していなかった。
なぜなら、神の意志はあなたの意志でもあるからである。
今や、神ご自身の強力な意志が、神からあなたへの贈り物である。
神はそれをご自身のためだけにとっておこうとはしない。
なぜあなたは、自分の微小で儚い想像の産物を、神から離しておこうとするのだろうか。
神の意志はひとつであり、存在するすべてである。
それはあなたが受け継いでいる賜物である。
太陽や星々を超え、あなたが思い浮かべることのできるすべての想念をも超える全宇宙が、あなたに属している。
神の平安が神の意志のための条件である。
神の平安に達成しなさい。
そうすれば、あなたは神を思い出すだろう。