何の問題もない、ということに、自我は動揺し、抵抗する。
何かしら反応しないと間が持たない。
でも、この「間」こそが空の入り口。
「間」に佇む。
ほっこりとし、しっとりとし、究極の甘美さにゆだねる。
・・・
難しさに序列があるという信念が、この世界の知覚の基盤である。
それはさまざまな差異に基づいている。
たとえば、不均一な背景や移り変わる前景、高低の差や大小さまざまなサイズ、多様な明暗の度合いなどである。
そしてまた、無数のコントラストの中で、目にとまる一つひとつのものが認識されようと競い合っている。
大きな物体は小さな物体を見劣りさせる。
鮮やかなものは、他のあまり魅力のないものから注意を奪う。
そして、より脅威的な概念や、世界の基準によればより望ましいとされる概念は、精神的な均衡を完全に乱してしまう。
肉体の目が見るものは葛藤ばかりである。
それらのものに平安と理解を期待してはならない。
幻想とは常に、差異の幻想である。
それ以外の何であり得るだろう。
幻想とは、その定義からいっても、非常に重要だと見なされているが真実ではないと認識されている何かを、実在させようとする試みである。
したがって、心はその何かを自分のものにしたいという欲求の激しさのあまり、それを真実にしようとする。
幻想は創造の真似事であり、嘘偽りに真理を持ち込もうとする試みである。
真理を受け入れ難いものと見た心が真理に反旗を翻し、勝利の幻想を自分に与えるのである。
健康を重荷と見て、心は熱に浮かされた夢の中へと引きこもる。
そしてこれらの夢の中では、心は分離しており、他の心たちとは異なり、独自の利害をもち、他者を犠牲にした上で自分の必要を満たすことができる。
こうした差異のすべては、どこから生じるのだろうか。
確かに、それらは外側の世界にあるように見える。
しかし、目が見ているものを判断するのは、もちろん心である。
目が伝える数々のメッセージを解釈し、それらに「意味」を与えるのは心である。
そしてこの意味は、外側の世界にはまったく存在しない。
「実在するもの」と見なされているのは、単に心が好んでいるものにすぎない。
心が定めた価値の順位が外側に投影され、心は肉体の目にそうした順位を見つけにいかせる。
肉体の目は、差異を通さなければ、決して、見るということをしない。
しかし、知覚の土台となるのは、それらの目がもち帰るメッセージではない。
心だけがそれらのメッセージを評価するので、見ることに責任があるのは心だけである。
心だけが、見えているものが実在するのか幻想なのか、望ましいのか望ましくないのか、楽しいことか辛いことかを決めるのである。
選別や分類という心の活動の中に、知覚における誤りが入り込む。
そして訂正が必要なのは、ここにおいてである。
心は肉体の目が運んできたものを、あらかじめ抱いていた価値観にしたがって分類し、それぞれがもたらす感覚的データがどこに最もよくあてはまるかを判断する。
これ以上に欠陥だらけの基準があるだろうか。
自らを認識していない心が、これらの分類に適合するものが与えられるようにと、自ら求めたのである。
そうしておいて、心はそれらの分類が真実に違いないと結論する。
あらゆる差異に関する判断が、この結論に基づいている。
なぜなら、世界の判断がこの結論に依存しているからである。
このように混乱した無分別な「論法」を、何のためであれ、当てにすることができるだろうか。
癒しに難しさの序列はあり得ないが、その理由は単に、すべての病気が幻想だからである。
狂人の信じる幻覚は、大きなもののほうが小さいものより一掃しにくいだろうか。
彼は、聞こえてくる声が小さいときより大きいときのほうが、それが実在しないことを速やかに認めるだろうか。
殺せという要求は、囁かれるときのほうが叫び声として聞こえるときよりも、彼にとって無視するのが容易だろうか。
また、彼に見える悪魔がもつ三叉の槍の数が、彼の知覚の中で悪魔の信憑性を左右するだろうか。
彼の心がそれらすべてを実在するものと分類したので、彼にとってはすべて実在している。
彼がそのすべてが幻想だと悟るとき、それらは消え去る。
そして癒しも同様である。
幻想をさまざまに異なるものに見せている幻想の属性は、実のところ、問題にならない。
そうした数々の属性も幻想そのものと同じく、幻にすぎないからである。
肉体の目は差異を見続けるだろう。
しかし、自らに癒しを受け入れた心は、もはやそれらを認知しなくなる。
その後も他の者よりも「病んでいる」ように見える者たちはいることだろう。
そして、肉体の目は、以前と変わりなく彼らの外観の変化を報告するだろう。
しかし、癒された心はそれらの外観をすべて同じ範疇に分類する。
すなわち、それらは実在していないという範疇である。
これは教師からの贈り物であり、外側の世界のごとく見えるものから心が受け取るメッセージを選別するにあたっては、二つの範疇のみに意味があるという理解である。
そしてその二つのうち、一つだけが真実である。
実相の中に差異は存在し得ないので、実相は、大きさや形や時間や場所と関わりなく、全的に実在している。
同様に、幻想同士の間にも区別はない。
あらゆる種類の病気に対する一なる答えが癒しである。
すべての幻想に対する一なる答えが真理である。