私が今ここにいる理由を、自分で判断するのをやめ、ゆだねていくほどに、より一層、至福を感じている。
コップもテーブルも、
庭も石ころも、
夫も隣人のご婦人も、
全部、私。
すべてがひとつらなりだった。
今、まだ肉体の目が映す間は、それをさまざまな色合いで認識していても、「心」においては、ただただ全体そのもの。
その塊に感じられるものの奥にある光。
その神の光のシャワーを浴び続け、共鳴が響き合う。
・・・
九. 神の教師は生活環境を変える必要があるか
変化が要求されるのは神の教師たちの心においてである。
これには、外的な環境が伴うことも伴わないこともある。
人はみな自分が今居る場所に偶然居るのではなく、神の計画に偶然の果たす役割はないということを、思い出しなさい。
新任の神の教師の訓練において、心構えを変化させることがその第一歩ではないという場合は、非常に少ない。
しかし、一定の型があるわけではない。
訓練は常に、個々人に即したものだからである。
中には、すぐにも生活環境を変えるよう促される者もあるが、概してそれは特別なケースである。
大多数の者には、ゆっくりと展開していく訓練プログラムが与えられており、その中で、できる限り多くの以前の間違いが訂正されていく。
とりわけ対人関係が正しく知覚されねばならず、赦そうとしない気持ちという闇の隅石のすべてが取り除かれなければならない。
さもなければ、古い思考体系が戻ってくる基盤が依然として残ることになる。
訓練が進むにつれ、神の教師は一なるレッスンをいっそう徹底して学んでいく。
彼は自分だけで決断はしない。
教師に答えを求め、それを自分の行動の指針とする。
これは、神の教師が自分自身の判断を手放すことを学ぶにつれ、次第に容易になっていく。
判断を手放すことは神の声を聞くための明らかな必要条件であるが、通常、それはかなり緩慢としたプロセスである。
その理由は、判断を手放すこと自体が難しいからではなく、それが自分にとって屈辱のように知覚されがちだからである。
この世界の訓練は、私たちのカリキュラムとは正反対のゴールを達成することに向けられている。
この世界は、成熟度と強さの尺度として、各人の判断を頼りにするように訓練する。
私たちのカリキュラムは、救済の必要条件として、判断を放棄するよう訓練する。