2020.3.14
レッスン43
神が私の源である。私は神から離れて見ることはできない。
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2020.3.14
レッスン43
神が私の源である。私は神から離れて見ることはできない。
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2020.3.13
レッスン42
神が私の強さである。心眼(ビジョン)は神からの贈り物である。
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今日の主題概念は、非常に強力で、きわめて重要な二つの考えを組み合わせしている。
それはまた、
このコースの目標と達成しょうとするあなたの努力になぜ失敗がありえないか、
その理由の説明となる因果関係を提示している。
あなたが真に見ることが神の意志であるから、あなたは見るようになるだろう。
あなたに力を与えるのは、あなた自身の強さではなく、神の強さである。
そしてあなたに心眼(ビジョン)を提供するのは、
あなた自身の贈り物ではなく、神からの贈り物である。
(1:1~5)
神こそがあなたの強さであり、神が与えるものは、真に与えられている。
これは、あなたがどこにいようと、自分がどのような状況に置かれようと、
あなたはそれをいつでも、どこででも、受け取ることができる、という意味である。
あなたは時間と空間の中をでたらめにすすんでいるのではない。
あなたは必ずいるべき時に、いるべき所にいる。
それが神の強さである。それが神の贈り物である。
(2:1~6)
今日の概念に関連して思い浮かぶ事柄だけを考えるようにする。
たとえば、あなたは次のように考えるかもしれない・
心眼は可能であるはずだ。
神が真に与える。
または
私に対する神からの贈り物は私のものであるはずだ。
神はそれらを私に与えたのだから。
(4:3~7)
しかし、関連した考えを見つけようとして積極的に心の中を探すことは、
今日の演習の正しいやり方ではない。
ただ、後ろに退いて、考えが浮かんでくるに任せる。
これが難しいと感じられたなら、適切な考えを見つけようとして無理するよりは、
練習の間、目を開けたままゆっくりと今日の概念を繰り返すことと、
目を閉じて同様にすることを交互に行うほうがよい。
(6:1~3)
今日の概念は、複数の考えを一つにまとめていく最初のステップであり、
必要なものは何一つ欠けておらず、
矛盾したものや無関係なものはまったく含まれていない統一した思考体系を学んでいる、ということをあなたに教える最初のステップである。
(7:2)
一日を通して、主題概念を繰り返せば繰り返すほど、
それだけ何度も、このコースの目標は自分にとって重要であること、
そしてそれを忘れていないことを、
あなたに思い出させていることになる。
(8)
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過去と思い込んできた一切が、
「でっち上げられたストーリ」。
そうか、そうなのか、悲しかったり、苦しかったり、辛かったり、悔しかったり、、、そんな過去の一切が「自我」の作った「夢」だったのです。
「神の力」以外は全部「幻」だったのですね。
「神の力」、すなわち純粋な氣づき、または「愛」。
これだけが実在していたのですね。
過去の一切という「時間」と「空間」が、光に溶けていくのですね。
あなたに力を与えるのは、あなた自身の強さではなく、神の強さである。
ただ「自我」には力がなかったので、私の攻撃は必要がなかったのだと優しく導かれて、
あとは、真に見たいという意欲だけを求められています。
攻撃とその緊張が緩まるたびに、
真実が見えていきます。
そうか、本当に、過去の全部がでっち上げなのですね・・・。
2020.3.12
レッスン41
私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。
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今日の主題概念が、最終的には、
分離している者たちの誰もが味わう孤独感や見捨てられた感覚を完全に克服する。
憂鬱感は分離の必然の結果である。
不安、心配、深い無力感、惨めさ、苦しみ、損失に対する激しい恐れなども
同様である。
(1:1~3)
分離している者たちは、
「この世の悪」だと自分で信じているものに対して多くの「解決策」を発案してきた。
けれども、一つだけ彼らがしていないことが、その問題の実在性を問うことである。
しかし、
問題が実在のものではないのだから、
その結果が解決されるということはありえない。
今日の概念には、こうした愚かさのすべてを永遠に終わらせる力がある。
そして、どれほど深刻で悲劇的な形をとろうとも、
それが愚かさであることは間違いない。
(2:1~5)
あなた自身の奥深くには、
あなたを通して、今にも世界の中へと輝きを放つことのできる、
完璧なものの一切がある。
それは、こうしたものが実在すると考え、
それらに忠実に従うことで苦しんできた心を癒すので、
すべての悲しみや苦痛や恐れや損実を解決するだろう。
(3:1~2)
あなたから完璧な聖性が奪われることはありえない。
あなたがどこへ行こうと、聖性の源があなたとともにどこへでも行くからである。
あなたが苦しむということはありえない。
あなたがどこへ行こうと、すべての喜びの源があなたと共に行くからである。
あなたが孤独になることはありえない。
あなたがどこへ行こうと、すべての生命の源があなたとともに行くからである。
何ものもあなたの心の平安を壊すことはできない。
あなたがどこへ行こうと、神があなたとともに行くからである。
(4:1~4)
あなたがこのすべてを信じていないということは、わかっている。
重く垂れ込める暗雲のような狂った想念の奥深くに真理が隠され、
光を通さず一切を覆い隠す想念だけがあなたに見えるすべてだというときに、
どうしてあなたにそれが信じられるだろう。
今日、私たちは、この重く垂れ込めた暗雲を通り抜け、
その向こうにある光にまで達することに、初めて真剣に取り組む。
(5:1~3)
練習のはじめにまず今日の概念をゆっくり繰り返す。
その後は、何も考えようとしなくてよい。
そのかわりに、世界の無意味な考えをすべてやり過ごし、
内へ内へと向かう感じをつかむようにする。
あなたの注意を散漫にさせる考えを避けながら、
自分の心の非常に奥深くまで入っていくように努める。
(6:3~6)
もし役に立つようなら、ときどき、主題概念を繰り返してもよい。
しかし。何よりもまず、世界から、そして世界の愚かな考えの全てから離れて、
内側へ、より深いところへと沈んでいくように試みる。
あなたは、そうしたものすべてを通り抜けたところへ至ろうとしている。
(7:1~4)
神に到達することは可能である。
実際、それは非常に容易なことである。
なぜなら、それは世界で最も自然なことだからである。
世界で唯一の自然なことだとさえ言えるかもしれない。
あなたがそれが可能だと信じるなら、道は開かれるだろう。
この演習は、初めて試みた場合ですら、驚くような結果をもたらすこともありえるし、
遅かれ早かれ、常にうまくいくようになる。
この種の練習については、先に進むにつれて、もっと詳しく取り上げることになる。
ともかく、それは決して完全に失敗するということはないし、
瞬間的な成功も可能である。
(8:1~7)
一日を通して、今日の概念を何度も用いるが、
そのときできれば目を閉じてゆっくりとその概念を繰り返すようにする。
自分の言っていることと、その言葉が意味することについて考える。
これらの言葉が示唆しているあなたの聖性、
あなたを決して見捨てることのない仲間、
あなたを取り囲んでいる完全な保護などに、意識を集中させる。
(9:1~3)
あなたがどこへ行こうとも、神があなたとともに行くということを思い出すなら、
あなたは本当に、怖れの想念を笑い飛ばすこともできるのである。
(10)
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私がどこへ行こうとも、神が私とともに行く。
これが一番、そして唯一の自然な私たちのあり方だと述べられています。
それ以外は実在していない「妄想」だということです。
ですが、私が私に立ちはだかり、
「きっと、これはこうだ」
「きっと、あれはこうなってしまう」
「きっと、こういうことだ」
こうして過去という要塞の中に閉じこもっていました。
始まっても終わってもいない世界に閉じこもっていたのです。
私が私を閉じ込めていたのです。
そんな「妄想」は愚かな遊びだったと軽く笑い飛ばしていいのだと述べられています。
軽く笑い飛ばすなんて私にとって難しいことだと思っていましたが、
素直にワークに従ううちに、
笑い飛ばすことができないほど「深刻」で「リアル」だと思ってきたことが、
ピンぼけの映像のように薄まっていきます。
それは、「私(自我)」の終焉でもありますが、
「私(自我)」の終焉は、怖い事でもなんでもなく、
恋い焦がれ駆けずり回って探し求めていた「平安」「祝福」だったのです。
「ただいま」と、
本当の我が家に帰って、
大の字で寝そべってくつろぎます。
そんな安堵感にじんわり満たされています。
2020.3.11
レッスン40
私は神の子として祝福されている。
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今日から、あなたが自らの本性ゆえに受け取る資格のある幸福なものごとについて、
主張することを始める。
(1:1)
もし忘れたら、再び試みればよい。
長い間中断したときも、再び試みる。
いつでも思い出した時に、再び試みる。
(1:4~6)
今日の演習には、時間はほとんどかからないし、努力はまったく必要ない。
今日の概念を繰り返し、
それからあなたが神の子の属性として連想する事柄もいくつかつけ加えながら、
あなた自身に適用する。
(3:1.2)
私は神の子として祝福されている。
私は幸せで、安らかで、愛に満ちていて、満足している。
私は神の子として祝福されている。
私は冷静で、静かで、確信があり、自信をもっている。
(3:4~8)
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「私は神の子として祝福されている。」
ただそれを主張すればよいだけですと。
10分おきに。
忘れたら、ただ淡々とまた再び試みればよい、と。
とてもシンプルで最強です。
時間もかからない、努力もいらない。
ただそのことを思い出すだけですと。
なんてシンプルなんでしょう。
複雑な世界に執着、愛着があり、
複雑さに手ごたえを感じていた「自我」状態からすれば、
シンプル過ぎることに不満を感じ、
スルーしたくなるようなことです。
「コース」に出会う前の私にしてみたら、
このようなワークが拷問みたいに感じていました。
本当に真逆だったのです。
その奥の本当の理由は、
自分を「罪人」として扱い、
赦す氣などなかったのです。
「祝福」なんて分不相応と思い、
怖がっていたのです。
その誤解という障壁が薄れていくと、
心に空間が生まれ、
その空間に
「私は神の子として祝福されている」という言葉が
心地よい鈴のように鳴り渡っていくようです。
2020.3.10
レッスン39
私の聖性が私の救済である。
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罪悪感が地獄であるなら、その反対は何だろうか?
この「ワークブック」は「テキスト」を習得するために書かれているが、
「テキスト」と同じように、演習に使われている主題概念はきわめて単純明快であり、少しも曖昧ではない。
私たちは、知的な技巧にも論理の遊戯にも関心はない。
私たちはきわめて明白なものごとのみを扱っている。
あなたは複雑さの中で自分が考えていると思っているが、
その複雑さの雲に隠れて、その明白なことが見落とされている。
(1:1~4)
罪悪感が地獄であるなら、その反対は何だろうか。
これは少しも難しいことではない。
あなたがそれに答えることをためらうのは、その質問が曖昧だからではない。
そもそもあなたは、罪悪感が地獄であると信じているだろうか。
もしそう信じていたなら、「テキスト」がいかに単刀直入で簡明なものか、
すぐにわかっていただろうし、
「ワークブック」もまったく必要なかったことだろう。
誰も、すでに自分のものであるものを習得するための練習など、
必要としていない。
(2:1~6)
あなたの聖性が世界の救済であると、すでに述べた。
あなた自身の救済についてはどうだろうか。
あなたは自分に無いものを与えることはできない。
救い主は救われていなければならない。
それ以外にどのようにして彼が救済を教えることができるだろう。
今日の概念はあなたに該当するものであり、
あなたの救済は世界の救済にとって欠かせないものであることを認識する。
あなたが自分の世界に演習を適用するとき、世界全体がその恩恵に浴する。
(3:1~7)
あなたの聖性こそが、これまでに問われたことのある質問や、
現在や未来に問われる質問のすべてに対する答えである。
あなたの聖性が罪悪感の終わりを意味し、
したがって、地獄の終わりを意味する。
あなたの聖性が世界の救済であり、あなた自身の救済である。
あなたの聖性はあなたに属するというのに、
どうしてあなたが聖性から除外されたりすることがあるだろう。
神は神聖ならざるものを知らない。
神が神の子を知らないなどということがあるだろうか。
(4:1~6)
いつものように、まず今日の概念を自分に繰り返すことから練習を始める。
その後、目を閉じて、心の中を探し、
不安、憂鬱感、怒り、怖れ、心配、攻撃、不安定感など、
さまざまな形で現れる愛のない考えを見つけ出す。
どんな形をとろうとも、そうした考えは愛のないものであり、
したがって、怖れに満ちている。
だから、あなたは、そうした考えから救われなけでばならない。
(6:1~4)
あなたがあらゆる種類の愛のない考えに結びつけて考える具体的な状況、
出来事、人物などが、今日の演習にふさわしい題材である。
あなたの救済のためには、
それらをこれまでと違った見方でみることがぜひとも必要である。
そして、あなたがそれらを祝福することが、
いずれあなたを救い、あなたに心眼を与えることになる。
(7:1~3)
意識的に選択することなく、誰か特定の人だけに過度に重点を置くことなく、
ゆっくりと心の中を探して、
あなたとあなたの救済の間に立ちはだかるあらゆる考えを見つけ出す。
そうした考えの一つひとつに、今日の概念を次のように適用する。
○○についての私の愛のない考えが、私を地獄に閉じ込めている。
私の聖性が私の救済である。
(8:1~4)
集中を持続することは、最初は非常に難しい。
あなたの心がもっと訓練されて、
散漫でなくなるにつれて、ずっと容易になるだろう。
(9:3.4)
私の聖性が、このことから私を救う。
(11:3)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・あの人についての私の愛のない考えが、私を地獄に閉じ込めている。
私の聖性が私の救済である。私の聖性が、このことから私を救う。
・自分の過去についての私の愛のない考えが、私を地獄に閉じ込めている。
私の聖性が私の救済である。私の聖性が、このことから私を救う。
・両親についての私の愛のない考えが、私を地獄に閉じ込めている。
私の聖性が私の救済である。私の聖性が、このことから私を救う。
・過去の恋愛についての私の愛のない考えが、私を地獄に閉じ込めている。
私の聖性が私の救済である。私の聖性が、このことから私を救う。
・自分の身体についての私の愛のない考えが、私を地獄に閉じ込めている。
私の聖性が私の救済である。私の聖性が、このことから私を救う。
・・・・・
「個別」「特別」を信じ、それを守らなきゃいけない、という思い込みが全ての悲劇を生み出していました。
「個別」「特別」では無い!?なんて、クレイジー過ぎる考えだと思い込んでいました。
ですが、「個別」「特別」という考えのほうがクレイジーだったのですね。
本当に冷静に考えればそうですよね。
「個別」「特別」を保持するためには、闘うか防衛するか?に参戦するしかないのです。
ここにきて、ようやく「聖性」が何なのか?の自覚が起きてきております。
「聖性」という「全体」という安らかな喜びが私たちの本質だったのですね。
それは本当にもの凄くシンプルなことです。
「個別」「特別」を保持するために、マイノリティや複雑さを好んできて、かなりのこだわりの執着に埋没し、
深い深い闇に埋もれておりました。
【私たちは、知的な技巧にも論理の遊戯にも関心はない。
私たちはきわめて明白なものごとのみを扱っている。
あなたは複雑さの中で自分が考えていると思っているが、
その複雑さの雲に隠れて、その明白なことが見落とされている。】
あまりにも、シンプル過ぎて、明る過ぎる光に興味が持てませんでした。
あまりにも、当たり前過ぎて、拍子抜けですから・・・。
本当に「放蕩息子」だったです。
散々、暴れました。
怒られると思っていましたらか怖かったのです。
「個別」「特別」の概念のコートをそっと脱ぎます。
コートの下にある「聖性」そのものを自覚します。
そうして「聖性」の全体性の中へと溶け込みます。
これは「祝福」そのものです。
2020,3.9
2020.3.8
レッスン37
私の聖性が世界を祝福する。
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この主題概念は、世界におけるあなたの真の機能(はたらき)、
いわば、あなたがここにいる理由について、初めてほのめかしている。
あなたの目的は、世界を自らの聖性を通して見ることである。
そのようにして、あなたも世界もともに祝福される。
誰も何も失わない。
誰からも何も奪われることはない。
誰もが皆、あなたの神聖なる心眼(ビジョン)を通して恩恵を受ける。
それは誰にでも当然与えられるべきものを完全に与えるので、
犠牲の終わりを意味する。
そして誰もがすべてのものを得る資格を与えられる。
それが神の子としての彼の生得権だからである。
(1:1~6)
これよりほかに、世界の思考から犠牲という概念が取り除かれる道はない。
それ以外の見方は、どうしても、人またはものごとから代価を要求することになる。
その結果、そのように知覚する者は損失を被ることになる。
しかも、彼にはなぜ自分が失っているのか、見当もつかない。
それでも、あなたの心眼を通して、彼の全一性は彼の中の自覚の中に取り戻される。
あなたの聖性は、彼から何も求めないことによって彼を祝福する。
自らを全一と見ている者は、何も要求しない。
(2:1~7)
あなたの聖性が世界の救済である。
あなたは自らの聖性によって、
世界があなたとひとつであることを世界に教えることになる。
そして、それは、世界に向かって説教をしたり、
何かを告げたりすることによってではなく、
自らの聖性の中ですべてが自分とともに祝福されているという、
あなたの静かな認識を通してなされる。
(3:1~2)
練習は目を閉じたまま続けてもよいし、
望むなら、その後また目を開けてこの概念を周囲の世界にあてはめてもよい。
あるいは、周囲に見えるものとあなたの考えの中に現れてくる人々に交互に適用してもよいし、
(5:1)
あなたが出会う誰にでも、
声を出さずにその人の名前を使ってこの概念を適用すれば、特に役に立つ。
誰かがあなたの中に反発を引き起こすように思えるときは、
必ずこの主題を適用する。
その人に、あなたの聖性の祝福をただちに差し出しなさい。
それによって、あなたは自分の聖性を自覚の中に保つことを習得できる。
(5:1~4)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・私の聖性がこの洗濯物を祝福する。
・私の聖性がこの食事を祝福する。
・私の聖性がこの身体を祝福する。
・私の聖性がこの肌を祝福する。
・○○さん、私の聖性があなたを祝福します。
・○○さん、私の聖性があなたを祝福します。
・○○さん、私の聖性があなたを祝福します。
・○○さん、私の聖性があなたを祝福します。
・○○さん、私の聖性があなたを祝福します。
・・・・・
私がここに存在する真の目的は、
存在のすべてを「祝福」することだったのですね。
これまでさんざん「生きている意味」を探し求めてきましたが、
「自我」で世界を見ると、戦々恐々として穏やかではいられなかったし、焦りしかなくて、どこにも見つかりませんでした。
「聖霊」を通して見ると、
「祝福」しかないのです。
納得と安心です。
なんて嬉しいお知らせなんでしょう。
「自我」を自分だと思い込んでいた時は、
恨みつらみのオンパレードで、
それが深い「罪悪」からの波及だったことを忘れ、
本当に長い間、闇のレッスンを繰り返していました。
これからも、ついつい、闇のレッスンをしちゃうかもしれませんが、
このワークに素直に心を開き、
「祝福」という聖職に戻りたいです。