【奇跡講座】の気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

自分を責めたいという誘惑(W レッスン147)

 「愛」はふさわしくない、ということにしておこうとするという自我意識。

 

だから、不十分さを演出し、それを捏造し、ストーリー化させて、そのストーリーに入り込み、分離意識を味わっている。

 

人を責めることがなくなったら、今度は自分を責める。

罪悪のストーリーを終わらせないようにしている。

 

人間関係で問題があるとかないとか、身体に問題があるとかないとか、お金があるとかないとか、人気があるとかないとか、才能があるとかないとか、と、欠如のストーリーをでっち上げ、自我意識に留まり続けるために、責めたり、恐れたりする。

 

自我のストーリーの中でどうにかしようとすればするほど、それを、リアル化させてしまい、深刻さが増すばかりになる。

 

「スピリット」は、物質世界がどのようであっても、全く関係ない。

「霊」は、「空」で「愛」で「全一」なのだ。

ただそうである、という氣づきの中にあればいい。

 

だから、物質世界で見る「違い」の動揺や反応を、「訂正」の機会としてのみ扱う。

 

「個」として存在するための、価値や評価や罪悪の材料にする必要はない。

 

この扱いに注意深くありたい。

 

 

ワークブック

復習

レッスン147

 

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

 

(133) 私は無価値なものに価値を置かない。

(134) 私は赦しをありのままに知覚できますように。

 

サウナでは整わない(W レッスン146)

神が創造したままの私は、自分が「世界」だと思っていたものすべてから、世界を解き放ちたい。世界が実在しないからこそ私は実在するのであり、私は自分自身の実相を知りたいのだから。

(L 132 15:2.3)

 

「肉体」はコミュニケーションに使われるだけでいい。

そう思うとなんと気楽なことだろうか。

最初はピンとこなかったし、見た目など表面ばかりに氣が取られていた。

これまで、どれだけ緊張を与えて酷使してきたのだろうか。

ボディちゃん、ごめんなさい・・・。

 

昔はサウナに入りまくったなぁ・・・。

痩せようと思っていたし、スッキリしたかったから。

でもいっこうに痩せなかったし、スッキリするのも一瞬だった(笑)。

 

肉体労働するな、ということではないし、身体を使うな、ということではない。

ただ「目的」が間違っていたのだ。

肉体を、この世界で何かを「獲得」ための武器にしていたのだ。

 

けど、本当にどうでもいいことだった。

「愛」をわかち合う、「愛」を共鳴し合う、「愛」を祝福し合うだけなのだ。

だから、実際、誰とも会う必要すらない。

「肉体」はそういう意味では、使われることもないのだ。

 

でも、そうはいっても、まだ肉体を信じているので、消えることはないので、消えない間は、「肉体」は「愛」を賛美するための楽器のように・・。

それでも「肉体」を楽しむのも少し違う氣がする。

もうすでに「喜び」なんだから、あえて楽しむために「肉体」を使うのは、余計なことなんだろう、自我の働きなんだろうな。

 

気楽になる。

自由だなぁ。

優しく使おう。

 

・・・・

ワークブック

復習

レッスン146

 

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

 

(131)  真理に到達しょうとして、それに失敗する者はいない。

(132)  これまで「世界」だと思ってきたものすべてから、私は世界を解き放つ。

 

ストーリーが消えると(W レッスン145)

しかし愛には敵はありえないので、それらには原因はなく、実在もなく、もたらされる結果もない。(L 130 4:5)

 

地獄のほんの一部でも実在のものとして受け入れるなら、あなたは自分の目を呪い、自分の視覚を損なったのであり、あなたが見るものはまさに地獄となる。

しかし、それでも地獄が見せようとする一切のものと入れ替われるように、天国の解放はあなたが選択できる範囲にとどまっている。

地獄のどの一部がどんな形で現れてくるとしても、それに向かって言うべきことは、これだけである。

二つの世界を一度に見ることはできない。

私は自由と解放を求めているのだから、これは私が望むものの一部ではない。

(L130 11:1~5)

 

幸せだったとは思えなかったり、失敗した過去の記憶がザクザク出てくる。

悔やんでももう取り返しがつかない。

これまでだったら、セフルセラピーとして受容し、それでもしぶとい時は気分が上がることしたり、氣を反らすために食べたり飲んだりネット見たり。

 

セルフセラピーの受容はある程度はスッキリする。

だけど、完全ではない、またそのうち出てくる。

 

認識が「個人」のままだから。

「個人」のまま「個人」をセラピーするということは「個人」を強化するだけなのだ。

 

自我で自我を処理していると、自我は自我を無くすつもりはないので、自我を温存するため、記憶が過ぎ去っていくことができない。

 

・・・・・・

聖霊」に全部、おまかせする。

「わたしにこの記憶と感情感覚は扱えません。ゆだねます」

感じて渡す。

・・・・・・

 

自我の信念とストーリーは「愛の欠如」

 

「私は愛される資格がない」

「私には愛が足りていない」

「私は愛する力はない」

 

思い返すと、全部、これが元になっている。

「どうせ愛されないし、だからこそ、誰のことも、何のことも愛せない」という思い込みが、数々の後悔のストーリーになっている。

「愛」を諦めて、自力で表面上での取り引き、かけ引き、ギブアンドテイク。

 

あぁ、恥ずかしい。

 

過去の記憶から浮上する感情感覚とこの恥ずかしさも一緒に、

聖霊、私はこれ以上、この感覚を持っていたくありません、そしてどうすることでもきません、ゆだねます」

 

常に瞬時に聖霊にゆだねる。

 

ゆだね続けていると、自我のストーリーが少しずつどうでもよくなってきた。

「本当にそうだったのかな?」と、過去への反応がなくなっていく。

 

「緊張」していて、ただ何も本当には見えていなかったんだね・・・。

自我のストーリーの奥に確かな無垢性がいつもあった。

 

ストーリーが消えると「無垢性」だけが残った。

 

そしてそれだけが確かなものだった。

その確かさだけが事実だった。

・・・・・

ワークブック

復習

レッスン145

 

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

 

(129) この世界を超えたところに、私の望む世界がある。

(130) 二つの世界を一度に見ることはできない。

軽い心(W レッスン144)

少しの間、動きを止めて、静まりなさい。

そして、あなたが自分の心から鎖をはずし、心が自らのくつろげるレベルを自然に見つけるままにするとき、あなたがどれほど高くこの世界から離れて昇っていくかを見なさい。

心は、少しの間、自由になれたことを感謝するだろう。

心は自らがどこに属するかを知っている。

ただその翼を自由にしてやりさえすればよい。

そうすれば、それは確信と喜びのうちに飛翔し、自らの聖なる目的につながるだろう。

心が正気と自由と愛を取り戻せるように、創造主のもとで心を休息させなさい。

(レッスン128 6)

 

動揺は、瞬時に聖霊に渡す。

 

これ以上の働きは必要ない。

あとは愛を止めないだけ。

 

なんと楽だろう。

祝福だけだ。

 

・・・・・

ワークブック レッスン144

復習

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

 

(127) 神の愛のほかに愛はない。

(128) 私がみているこの世界には、私が望むものは何もない。

静かになる(W レッスン143)

自我の欲求を浮上させてあげる。

悪夢から逃れたいために叫んでいるけど、優しく背中や肩をさすりながら、

それは「夢なんだよ」と片時も離れないでいてくれたイエス聖霊が囁いてくれていた。

 

叫び声が大きいときには、その優しくて確信に満ちた囁きが届かなかった。

 

だけど、大声で怒鳴っていた自分の声がだんだんと静かになる毎に、イエス聖霊の声は間違えようのない明瞭さではっきりと聞こえてきた。

 

その慈愛が私を包んでくれた。

 

そして、その大きな腕の中から一度も出たことなどなかったのだと氣づきはじめている。

・・・・・

 

レッスン143

復習

 

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

 

(125) 静けさの中で、今日、私は神の言葉を受け取る。

 

(126) 私が与えるものはすべて、私自身に与えられる。

 

 

教えてください(W レッスン142)

私が神とひとつであることを、思い出せますように。

 

自我の言い張りである「私は知っている」「私は私の幸せを知っている」「私は私を知っている」

 

これをやめたい。

 

退きたい。

 

どうぞ、自我の向こう側へ連れて行ってください。

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ワークブック レッスン142

復習

私の心にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

 

(123) 私は、父が贈り物を与えてくれたことに感謝する。

(124) 私が神とひとつであることを、思い出せますように。

退く練習(復習Ⅳ 序・レッスン141)

どれだけの間、赦そうとしない夢を見続けていただろう。

そうして、その夢に入り込んでいる間であっても、神に抱かれ、その腕の中で眠りこけていただけだった。

 

目を覚ますだけでよかった。

 

眠っているふりをしてても、神はそっとしてくれておいた。

 

自らが目を開けるまで、そっと抱きしめてくれていた。

 

・・・・・

復習 Ⅳ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

(2:2)

 

真の赦しの欠如を巧みに隠している数多くの形態について理解することから、私たちの準備を始めよう。

それらはすべて幻想であるから、その正体の通りに知覚されてはいない。

そしてその正体とは、赦したくないというあなたの想念が見えるものとなって認識されるのを防ぐための防衛である。

その目的は、あなたに別の何かを見せることであり、訂正のかわりとなる自己欺瞞を通して、訂正を阻止することである。

(3:1~3)

 

・・・自分が読むレッスンを理解してその意味を捉えられるように、自分の心を準備する。(4:4)

 

さらに、一日のはじまりには、その日の学びに備えて心を準備する時間をもつようにする。

それは、自由と平安の中で、その日に復習する主題概念があなたにもたらすことができるものを、あなたの心が学べるように準備する時間である。

あなたの心を開き、欺こうとする想念を一掃しなさい。

(5:1~2)

 

その日が、神が定めた道筋にそったものとなり、あなたがその日に受け取るすべての想念を神の心に一任することになる。

(5:4)

 

その想念とともに少しの間静かな時をすごす。

(8:1)

 

そのようにして神の言葉をもち続ける練習をするあなたに、神は感謝する。
そして、あなたが、眠りにつく前にもう一度その日の二つの概念に心を向けるとき、神の感謝が、あなたを平安の内に包む。
神の意志は、その平安の中をあなたの永遠の住まいとして定めており、あなたは今それを、自分が継承している賜物として再び自分のものにすることを学んでいる。
(10:1~2)

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レッスン141


私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

(121) 赦しが幸せの鍵である。
(122) 赦しは、私が望むすべてを与えてくれる。