しかし愛には敵はありえないので、それらには原因はなく、実在もなく、もたらされる結果もない。(L 130 4:5)
地獄のほんの一部でも実在のものとして受け入れるなら、あなたは自分の目を呪い、自分の視覚を損なったのであり、あなたが見るものはまさに地獄となる。
しかし、それでも地獄が見せようとする一切のものと入れ替われるように、天国の解放はあなたが選択できる範囲にとどまっている。
地獄のどの一部がどんな形で現れてくるとしても、それに向かって言うべきことは、これだけである。
二つの世界を一度に見ることはできない。
私は自由と解放を求めているのだから、これは私が望むものの一部ではない。
(L130 11:1~5)
幸せだったとは思えなかったり、失敗した過去の記憶がザクザク出てくる。
悔やんでももう取り返しがつかない。
これまでだったら、セフルセラピーとして受容し、それでもしぶとい時は気分が上がることしたり、氣を反らすために食べたり飲んだりネット見たり。
セルフセラピーの受容はある程度はスッキリする。
だけど、完全ではない、またそのうち出てくる。
認識が「個人」のままだから。
「個人」のまま「個人」をセラピーするということは「個人」を強化するだけなのだ。
自我で自我を処理していると、自我は自我を無くすつもりはないので、自我を温存するため、記憶が過ぎ去っていくことができない。
・・・・・・
「聖霊」に全部、おまかせする。
「わたしにこの記憶と感情感覚は扱えません。ゆだねます」
感じて渡す。
・・・・・・
自我の信念とストーリーは「愛の欠如」
「私は愛される資格がない」
「私には愛が足りていない」
「私は愛する力はない」
思い返すと、全部、これが元になっている。
「どうせ愛されないし、だからこそ、誰のことも、何のことも愛せない」という思い込みが、数々の後悔のストーリーになっている。
「愛」を諦めて、自力で表面上での取り引き、かけ引き、ギブアンドテイク。
あぁ、恥ずかしい。
過去の記憶から浮上する感情感覚とこの恥ずかしさも一緒に、
「聖霊、私はこれ以上、この感覚を持っていたくありません、そしてどうすることでもきません、ゆだねます」
常に瞬時に聖霊にゆだねる。
ゆだね続けていると、自我のストーリーが少しずつどうでもよくなってきた。
「本当にそうだったのかな?」と、過去への反応がなくなっていく。
「緊張」していて、ただ何も本当には見えていなかったんだね・・・。
自我のストーリーの奥に確かな無垢性がいつもあった。
ストーリーが消えると「無垢性」だけが残った。
そしてそれだけが確かなものだった。
その確かさだけが事実だった。
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ワークブック
復習
レッスン145
私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。
(129) この世界を超えたところに、私の望む世界がある。
(130) 二つの世界を一度に見ることはできない。