【奇跡講座】の気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

(レッスン339)

”求める”気持ちや行為を観察すると、「苦痛」なんだとわかる。

何かを手に入れないといけないという思いも、手に入れたら、今度はそれが失われないようにしなければならないという思いも、どちらにせよ、全部「苦痛」。

この世界は苦痛を生み出すように作られている。

その世界に張り付こうとするのは罪を信じているから。

2元の世界の夢。

 

今すぐ、内側の「ある」につながろう。

 

それだけが、実在している。

 

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レッスン339

 

私は自分が要求するものを受け取ることになる。

 

・・・・・

 

誰も苦痛を望みはしない。

しかし苦痛を快楽と考えることはできる。

誰も自分の幸福を避けたいとは思わない。

しかし、喜びには苦痛や脅威や危険が伴うと考えることはできる。

誰もが自分が要求するものを受け取ることになる。

しかし、自分が望むものや、達成したい状態について、混乱することは充分にありえる。

そういうとき、実際に受け取ってみて望ましいと思えるようなどんなものを要求することができるだろうか。

彼は自分を脅かし、苦しみをもたらすものを要求したのである。

今日は、苦痛を喜びと、恐れを愛と間違えたりせず、恐れを抱かず一日を過ごせるように、自分が真に望むものだけを求めるという決心をしょう。

 

父よ、今日はあなたの日です。

自分ひとりで何かをしようとせず、為すことすべてにおいてあなたの声を聞こうとする日です。

あなたが与えてくださるものだけを要求し、あなたが共有してくださる想念だけを受け入れます。

(全文)

愛にとどまる(レッスン338)

自分の考えがどれだけ暴走しても、空に消えていく。

 

今日、歯医者に行く予定と、そのあと、あまり知らない人を会う。

 

これまでなら、自我なりの防衛対策に沿って、考えたり、心を整えておいたりする。

 

もう痛い目に合いたくないとか、歳取ることが憂鬱だとか、どんなことを言われるんだろうとか、ペースを乱されないようにしようとか、ちゃんと問題は解決できるだろうかとか。

 

だけど、そんな準備はいらなかったのだった。

 

思考が必要ない世界には愛だけがある。

 

そして、私も、皆も、全ての被造物はそこにいる。

 

表面で何が起きているように見えて、身体がどうなったとか、あの人がこんなことしたとか言ったとか、と、そこに囚われたい誘惑にかられても、その感覚だけを感じながら、そこから、退き、愛に浸る。

 

何もかもが含まれている愛に浸る。

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レッスン338

 

私は自分の考えのみに影響される。

 

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救済が全世界に訪れるために必要なのは、これだけである。

この一つの考えの中で、誰もがつい恐れから解放される。

今や彼は、誰も自分を脅かさず、何も自分を危険にさらすことはないと学んだ。

彼に敵はなく、外界からの一切から安全に守られている。

彼の考えが彼自身を怯えさせることはできるが、そうした怖れの考えは彼ひとりのものなので、彼にはそれらを変化させ、それぞれを愛に満ちた幸福な考えへと交換する力がある。

彼は自分自身を十字架にかけた。

しかし神は愛するわが子は贖われるという計画を用意した。

 

父よ、あなたの計画は確実です。

その計画だけが確実なのです。

ほかのすべての計画は失敗します。

救済へと導く唯一の想念をすでにあなたから与えられていると学ぶまで、私は自分を怯えさせる考えを抱くことでしょう。

私の計画だけでは失敗し、私をどこへも導きません。

けれどもあなたが与えてくださった想念は、あなたがあなたの子に与えた約束を内包しているので、私をわが家へと導くことを約束しています。

(全文)

(レッスン337)

危害と思っていたものは、全部、危害ではなかった。

分離の夢だった。

 

私たちが傷つくのは不可能。

どんな行為もどんな言葉もどんな出来事も、自我の作ったまやかし。

だから、なんの力もない。

そして、ゆるぎない愛だけが燦然と悠然とある。

 

私たちはそこから一度も離れてはいない。

 

離れていないところを感じよう。

愛を受け入れよう。

幸福を認めよう。

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レッスン337

 

私の無罪性が、私をすべての危害から守る。

 

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私が無罪性を保証するのは、完璧な平安、永遠の安全、常しえの愛、あらゆる損失の想念からの永遠の自由、苦しみからの完全な解放である。

そして、幸福だけが私に与えられているので、幸福だけが私に唯一可能な状態である。

どうすれば、このすべてが私のものだと知ることができるのだろう。

贖罪を自分に受け入れること、それだけである。

神は為すべきことの一切をすでに為された。

私は、自分では何もする必要はないと学ばなければならない。

神の愛が私を危害から守っていることを感じ、父がわが子を愛していることを理解し、自分が父の愛し子であることを知るためには、ただ私の真の自己を受け入れ、私のために創造されてすでに私のものである無罪性を受け入れさえすればよい。

 

私の無罪性のうちに創造されたあなたは、私の本性について誤っておられません。

私は自分が罪を犯したと思ったとき間違っていましたが、今、贖罪を受け入れます。

父よ、私の夢は今、終わりました。アーメン。

(全文)

 

聖なる夜に(レッスン336)

特別さの終焉と同時にあふれる神聖。

 

無限の喜びの中にいる。

 

どこにも求める必要はなかった。

 

ありがたさのシャワーが降り注ぐ。

 

私の中のキリストを祝福します。

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レッスン336

 

赦しは、心がつながっていることをわからせてくれる。

 

・・・・・

 

赦しは、知覚に終わりをもたらすために定められた手段である。

知覚がまずは変化し、次に知覚自体には永遠に到達不可能な高みにあるものへと完全に道を譲った後に、智識が回復される。

光景や音声は、せいぜい、それらすべてを超えた記憶を呼び戻すことに役立つだけのものにすぎない。

赦しはさまざまな歪曲をぬぐい去り、隠れていた真理の祭壇を開く。

赦しの百合の花が心の中で光を照らす。

そして、戻ってきて内側を見るようにと心に呼びかけ、これまでむなしく外に探求してきたものをここに見出すようにと促す。

唯一ここにおいてのみ、心の平安が回復される。

ここが神ご自身の住む場所だからである。

 

静けさの中で、赦しが、私の分離と罪の夢を拭い去りますように。

父よ、私が内側を見て、あなたが約束された通りに私の無罪性が保たれているのを見出せますように。

御言葉が私の心に変わりなく存続し、あなたの愛が今も心に宿っているのを見出せますように。

(1:1-6)

 

 

(レッスン335)

ずっと「兄弟をゆるす」という言葉に拒否反応があった。

それは、自分の中に「個」として、「特別な存在」としての”判断”が居座っていたから。

「あれはいいけど、これはだめ」。

どんな些細なことであっても、すべてを看過するまでは、「個」は居座り続ける。

 

だけど、その些細な拒否が私を攻撃し続ける。

居心地の悪さとつながり続けている。

 

その些細な拒否、言い張り、判断を、ただそのままそこに置く。

 

そして、「わからなさ」に飛び込む。

 

個人の言い張りの泣き叫びの中を通り抜けて、そのまま身をゆだねる。

 

私は何も見ていなかったことに気づく。

 

個という特別性の催眠から目覚めると、すべてが優しい光で静かに輝いていた。

 

私たちの無罪性がすべてを透明に見せてくれた。

 

聖性の中、何もかもが祝福だった。

 

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レッスン335

 

私は兄弟の無罪性を見ることを選択する。

 

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赦しは選択である。

私は決して兄弟をありのままに見てはいない。

兄弟の本性は知覚をはるかに超えているからである。

私が兄弟の中に見ているのは、自分が見たいと思うものだけである。

なぜなら、それは真理であってほしいと私が思うものを表しているからである。

どれほど下界の出来事が私を駆り立てているように思えても、私はこのことだけに応答している。

私は自分が見たいものを見ることを選択し、ただそれだけを見る。

兄弟の無罪性は、私が自分の無罪性を見ようとしているということを教えている。

そして私は、兄弟をその神聖な光の中に見ることを選択したので、自らの無罪性を見るだろう。

 

兄弟の無罪性を見ること以外に何が、あなたについての記憶をわたしに呼び戻してくれるでしょう。

彼の無罪性は、彼が私と一体のものとして、私と同じように創造されたということを、思い出させてくれます。

私は彼の中に私の自己を見出し、あなたの子の中にあなたについての記憶を見つけます。

(全文)

(レッスン334)

願いは自分とすべての人と物事を全く同じ愛で見ること。

 

それだけが私の宝物。

 

それ以外、求めるものなどなかった。

 

ここだけにコミット。

 

軸は「愛」。

 

それだけが目的。

 

この世界で果たすのは、これをすべてに思い出し続けることのみ。

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レッスン334

 

今日、私は赦しが与える贈り物を自分のものと宣言する。

 

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私は、父が与えてくれる贈り物を見出すために、これ以上一日も待つつもりはない。

幻想はすべて空虚である。

夢は偽りの知覚に基づく想念が織りなすものであり、織りなされていく最中に、すでに消え去っている。

そのような貧しい贈り物を今日もまた自分に受け入れるのは、やめよう。

神の声は、それに耳を傾けて神に従うことを選択するすべての者に、神の平安を差し出している。

これが私の今日の平安である。

だから私は神が与えてくれた宝物を見つけにいく。

 

私は永遠なるものだけを追求します。

それ以下のものでは、あなたの子は決して満足できないからです。

それならば、彼を慰められるものとは何でしょうか。

確かさと平安をもたらすために、あなたが彼の困惑した心と怯えた胸に差し出しているもの以外にありません。

今日、私は兄弟を罪なき者と見たいと思います。

そのようにして、私は自分の無罪性を見るのですから、これが私のためのあなたの意志です。

(全文)

 

(レッスン333)

手放せないと思っていた苦しみや闇が溶けていく。

自分に刷り込んでいた「自分像」がはがれていく。

「個」というメッキの下の何処までも深い慈愛に包まれる。

 

そのためには「ダイレクト」に葛藤の中へと入っていく。

”そこ”には、本当に私が思っているような苦しみや闇があったのか?

 

例えば、

小学校5.6年の時の担任の先生や中学の体育の先生に、褒められたと思ったら、次の瞬間は怒鳴られる、というような、今思うとその先生のその日の気分で弄ばれていた。

2人の先生に共通していたのは「体育」専門だったということ。

「身体能力」のあるなしで裁かれていた。

クラスのみんなの面前だったので、本当に恥ずかしかった。

その頃の時代、「先生」は絶対的な存在だったので、自分がよっぽどダメな人間なんだと卑下して生きてきた。

自分のダメさ加減が、これらの経験を繰り返すことで強化されてきて、それらをベースにして「自分」という概念を握りしめていた。

特に、「身体」としての自分のダメさ、脆さ、不確かさの信念を強化してきた。

コースにて、それが「分離」のおける罪悪感の捏造だと気づかされ、その種が明かされ、「ゆるし」を知っても、その先生たちへの遺恨はなかなか消えなかった。

 

それでも、その他の「ゆるし」と共に、どんどんと深く、真正面から、「苦しみ」「闇」の中へとダイレクトに入っていった。

 

「大切にしてほしい」

「大切にされる価値があるんだから」

「怖い」

「ゆるしてほしい」

「本当は弱いということをバレたくない」

「強くなりたい」

「私を特別な存在と認めてほしい」

「私は特別なんだから」

「私という存在を消さないでほしい」

「ゆるしてほしい」

「私を救ってほしい」

「ゆるしてほしい」

「私を蔑ろにしないでほしい」

「このまま見逃してほしい」

「ゆるしてほしい」

 

私と先生たちは、同じ泣き叫びを叫んでいた。

 

「そうか、そうか・・・」

 

「苦しみ」「闇」は2つの演出をする。

一つは自分を卑小化(否定)すること。

もう一つは自分を尊大化(肯定)すること。

 

どちらも「個人」を温存するために必要なもの。

 

「全体」としての生命を感じさせないように、「個人」の存続に欠かせない感覚だった。

 

「個人」の言い張りの中、泣き叫びの中に、すっぽりと入っていく。

何も怖いことはなかった。

どれも、夢見のときのうわ言に過ぎなかった。

最初はそんな風に思えなかった。

苦しくて恥ずかしくて腹が立ってしょうがなかった。

 

でも、「個人」の言い張りの中にただただ身を投じていく度。

また、「コース」の言葉に触れて、そのダイレクトな愛に包まれる度に。

そして、これらの感覚を正直に兄弟とわかち合う度に。

 

夢見のうわ言は「空」へと消えていった。

 

「個人」「身体」「形」の呪縛から解かれていく。

 

本当の私たちは「全体」そのもの。

 

それを認める。

それを受け入れる。

 

「全体」として生き始めると、ただただ自由で、愛が無防備に飛び交う。

 

調整も、適応も、取り繕いも、嘘も、必要ない。

 

何もかもが麗しく愛おしい。

 

何もかもが光を帯びて優しくほほえんでいる。

 

何もかもが「全体」の一部を担った神の子だ。

 

・・・

ワークブック

レッスン333

 

ここでは、赦しが葛藤の夢を終わらせる。

 

・・・・・

葛藤は解決されなければならない。

葛藤から脱出したければ、それをうやむやにしたり、脇に置いたり、否認したりすることはできない。

偽装をほどこしたり、それをどこか他の場所に見たり、他の名前で読んだり、何らかの欺瞞によって隠しておくわけにもいかない。

葛藤はあるがままに、それが存在すると思われる場所に、それらに与えられている実在性の中で、その心がそれに与えた目的をもったものとして、見られなければならない。

その時にのみ、葛藤を防衛していたものが取り外され、真理が葛藤を照らすことが可能になり、葛藤は消滅する。

 

父よ、赦しは、すべての葛藤や疑いを照らし去るためにあなたが選択してくださった光であり、あなたのもとに私たちが戻る道を照らす光です。

これ以外に、私たちの邪悪な夢を終わらせる光はありません。

これ以外に、世界を救える光はありません。

これはあなたから愛し子への贈り物であり、これのみが、何においても決して失敗しないものだからです。

(全文)

 

・・・

 

(過去の学習後の文)

※ まだ、分離の世界を信じた前提の文だなぁって感じます。↓

 

これまでも散々、自分の内側は見てきたつもりだったけど、わずかな葛藤でさえあるということは「自我」を握りしめているということ。

もう逃げるつもりはないし、時間は幻想だと理解しつつあるから、たっぷりと丁寧に内側に取り組もう。

自分の中の葛藤、思い出したものはどんな些細なものであれ、白日の元に出してあげよう。

個の具体的な出来事を、終わらせていこう。

今、思い出した記憶。

ちょくちょく思い出す幼い頃の出来事。

小学生の頃の放課後の部活。

あの頃は強制的に女子はソフトボールに参加させられた。

ソフトボールが嫌いなわけではなかった。

楽しかった。

だけど、先生や大人達は、身体能力のある子達とそうではない子達をあからさまに差別していた。

純粋に楽しむ心は消え去り、評価されない事に囚われ、不満を抱き、心は拗ねまくっていた。

ある夜も悔しくて泣いて母に「平等にしてくれないのが悔しい」と訴えたら、「仕方ないたい、いつまでもグズグスするな」と逆にキレ気味に諌められた。

何か納得いくようなアドバイスが欲しかった。

優しく話を聞いて欲しかった。

励まして欲しかった。

そんな経験は一度も与えてもらえず、比べられて、劣ってる者はぞんざいに扱われるままだった。

自分なりに頑張っても、持って生まれた身体能力は抗えない部分があった。

何もかもが腹立たしかった。

親も先生も大人達も全部を恨んでいた。

そして何より、自分を恨んでいたし呪っていたんだなぁ・・・。

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ほんと、気持ちに正直に書いたらわかる。

「自我」の思考体系。

無いものねだり。

欠乏意識。

分離と攻撃。

穏やかさも平安も一ミリもない世界。

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あの頃の私に伝えたいことが湧いてくる。

ソフトボール、楽しいね、ボールを掴んだり、バットにボールが当たる、あの瞬間の感覚は気持ちいいね。ベースに向かって思いっきり走るのも楽しいね。」

「上手な人を見てると心がわぁ~~~って感動するね。」

「身体動かしてるの気持ちいいね。無理するんじゃなくて、気持ちいい範囲でいいよ。」

「風が気持ちいいね」

「花や草が面白いね」

「楽しんでいいよ。面白がっていいよ。」

「出来ない、知らない、って面白いね、ゆっくりやっていこうね。」

「あなたは何からも離れていない。私たちは共にいるよ。」

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今ならすんなり受け入れられる。

嬉しいし穏やかさに包まれる。

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