手放せないと思っていた苦しみや闇が溶けていく。
自分に刷り込んでいた「自分像」がはがれていく。
「個」というメッキの下の何処までも深い慈愛に包まれる。
そのためには「ダイレクト」に葛藤の中へと入っていく。
”そこ”には、本当に私が思っているような苦しみや闇があったのか?
例えば、
小学校5.6年の時の担任の先生や中学の体育の先生に、褒められたと思ったら、次の瞬間は怒鳴られる、というような、今思うとその先生のその日の気分で弄ばれていた。
2人の先生に共通していたのは「体育」専門だったということ。
「身体能力」のあるなしで裁かれていた。
クラスのみんなの面前だったので、本当に恥ずかしかった。
その頃の時代、「先生」は絶対的な存在だったので、自分がよっぽどダメな人間なんだと卑下して生きてきた。
自分のダメさ加減が、これらの経験を繰り返すことで強化されてきて、それらをベースにして「自分」という概念を握りしめていた。
特に、「身体」としての自分のダメさ、脆さ、不確かさの信念を強化してきた。
コースにて、それが「分離」のおける罪悪感の捏造だと気づかされ、その種が明かされ、「ゆるし」を知っても、その先生たちへの遺恨はなかなか消えなかった。
それでも、その他の「ゆるし」と共に、どんどんと深く、真正面から、「苦しみ」「闇」の中へとダイレクトに入っていった。
「大切にしてほしい」
「大切にされる価値があるんだから」
「怖い」
「ゆるしてほしい」
「本当は弱いということをバレたくない」
「強くなりたい」
「私を特別な存在と認めてほしい」
「私は特別なんだから」
「私という存在を消さないでほしい」
「ゆるしてほしい」
「私を救ってほしい」
「ゆるしてほしい」
「私を蔑ろにしないでほしい」
「このまま見逃してほしい」
「ゆるしてほしい」
私と先生たちは、同じ泣き叫びを叫んでいた。
「そうか、そうか・・・」
「苦しみ」「闇」は2つの演出をする。
一つは自分を卑小化(否定)すること。
もう一つは自分を尊大化(肯定)すること。
どちらも「個人」を温存するために必要なもの。
「全体」としての生命を感じさせないように、「個人」の存続に欠かせない感覚だった。
「個人」の言い張りの中、泣き叫びの中に、すっぽりと入っていく。
何も怖いことはなかった。
どれも、夢見のときのうわ言に過ぎなかった。
最初はそんな風に思えなかった。
苦しくて恥ずかしくて腹が立ってしょうがなかった。
でも、「個人」の言い張りの中にただただ身を投じていく度。
また、「コース」の言葉に触れて、そのダイレクトな愛に包まれる度に。
そして、これらの感覚を正直に兄弟とわかち合う度に。
夢見のうわ言は「空」へと消えていった。
「個人」「身体」「形」の呪縛から解かれていく。
本当の私たちは「全体」そのもの。
それを認める。
それを受け入れる。
「全体」として生き始めると、ただただ自由で、愛が無防備に飛び交う。
調整も、適応も、取り繕いも、嘘も、必要ない。
何もかもが麗しく愛おしい。
何もかもが光を帯びて優しくほほえんでいる。
何もかもが「全体」の一部を担った神の子だ。
・・・
ワークブック
レッスン333
ここでは、赦しが葛藤の夢を終わらせる。
・・・・・
葛藤は解決されなければならない。
葛藤から脱出したければ、それをうやむやにしたり、脇に置いたり、否認したりすることはできない。
偽装をほどこしたり、それをどこか他の場所に見たり、他の名前で読んだり、何らかの欺瞞によって隠しておくわけにもいかない。
葛藤はあるがままに、それが存在すると思われる場所に、それらに与えられている実在性の中で、その心がそれに与えた目的をもったものとして、見られなければならない。
その時にのみ、葛藤を防衛していたものが取り外され、真理が葛藤を照らすことが可能になり、葛藤は消滅する。
父よ、赦しは、すべての葛藤や疑いを照らし去るためにあなたが選択してくださった光であり、あなたのもとに私たちが戻る道を照らす光です。
これ以外に、私たちの邪悪な夢を終わらせる光はありません。
これ以外に、世界を救える光はありません。
これはあなたから愛し子への贈り物であり、これのみが、何においても決して失敗しないものだからです。
(全文)
・・・
(過去の学習後の文)
※ まだ、分離の世界を信じた前提の文だなぁって感じます。↓
これまでも散々、自分の内側は見てきたつもりだったけど、わずかな葛藤でさえあるということは「自我」を握りしめているということ。
もう逃げるつもりはないし、時間は幻想だと理解しつつあるから、たっぷりと丁寧に内側に取り組もう。
自分の中の葛藤、思い出したものはどんな些細なものであれ、白日の元に出してあげよう。
個の具体的な出来事を、終わらせていこう。
今、思い出した記憶。
ちょくちょく思い出す幼い頃の出来事。
小学生の頃の放課後の部活。
あの頃は強制的に女子はソフトボールに参加させられた。
ソフトボールが嫌いなわけではなかった。
楽しかった。
だけど、先生や大人達は、身体能力のある子達とそうではない子達をあからさまに差別していた。
純粋に楽しむ心は消え去り、評価されない事に囚われ、不満を抱き、心は拗ねまくっていた。
ある夜も悔しくて泣いて母に「平等にしてくれないのが悔しい」と訴えたら、「仕方ないたい、いつまでもグズグスするな」と逆にキレ気味に諌められた。
何か納得いくようなアドバイスが欲しかった。
優しく話を聞いて欲しかった。
励まして欲しかった。
そんな経験は一度も与えてもらえず、比べられて、劣ってる者はぞんざいに扱われるままだった。
自分なりに頑張っても、持って生まれた身体能力は抗えない部分があった。
何もかもが腹立たしかった。
親も先生も大人達も全部を恨んでいた。
そして何より、自分を恨んでいたし呪っていたんだなぁ・・・。
・・・・・
ほんと、気持ちに正直に書いたらわかる。
「自我」の思考体系。
無いものねだり。
欠乏意識。
分離と攻撃。
穏やかさも平安も一ミリもない世界。
・・・・・
あの頃の私に伝えたいことが湧いてくる。
「ソフトボール、楽しいね、ボールを掴んだり、バットにボールが当たる、あの瞬間の感覚は気持ちいいね。ベースに向かって思いっきり走るのも楽しいね。」
「上手な人を見てると心がわぁ~~~って感動するね。」
「身体動かしてるの気持ちいいね。無理するんじゃなくて、気持ちいい範囲でいいよ。」
「風が気持ちいいね」
「花や草が面白いね」
「楽しんでいいよ。面白がっていいよ。」
「出来ない、知らない、って面白いね、ゆっくりやっていこうね。」
「あなたは何からも離れていない。私たちは共にいるよ。」
・・・・・
今ならすんなり受け入れられる。
嬉しいし穏やかさに包まれる。
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