全部間違っていました。
これまで、私、全部間違っていました。
何もわかっていませんでした。
「愛」として見る以外のものは全部間違った解釈でした。
「愛」に限定はなく、「愛」は無条件で、何もかもが愛の表れで、それを分けることは不可能だったのです。
肉体が話すこと、行うことに直接、評価を下すことは、自我としての見方でした。
これは愛で、これは愛じゃない、なんていう分別は不可能なのでした。
ただ、肉体という幻を越えた「純粋な空間」が愛で、それだけが真実で実存しています。
だからこそ、自分に対しても、誰に対しても、何一つ、何かを評価したり裁いたりできなかったのです。
ただ創造主を賛美することだけが使命だったのです。
重荷を下ろします。
もう一切の評価から退きます。
喜びます。
愛を受け入れます。
思い出したのは、幼い頃のかけっこ。
私は走るのが遅くて、そんな自分が恥ずかしくて、責めてました。
無力さを自分にはりつけていました。
だからこそ、違うことで、何か人より秀でなければならないと思っていました。
こうして、常に競争心を持っていました。
かけっこが遅い。
身体能力が低い。
スタイルが良くない。
何の問題もありませんでした。
愛とは何の関係もありませんでした。
愛の中にくつろぎます。
・・・・・
ワークブック
レッスン176
(161) 聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。
(162) 私は、神が創造したままの私である。
神は愛であり、だから私も愛である。
・・・・・
このようなものを、肉体の目は兄弟の中に見ているが、その人は、天国がいとおしみ、天使が愛し、神が完璧に創造した者である。
それが彼の実相である。
だからキリストの心眼においては、彼の麗しさはその足元にひざまずきたくなるほどに神聖にして美しい姿に映し出される。
しかし彼をそのように見る視覚の中では、あなたも麗しき者であるから、あなたはひざまずくかわりに彼の手をとる。
彼を攻撃することは、自分を敵をすることである。
攻撃しているあなたは、彼の手の中に自分の救済があることを知覚しないからである。
彼に対し、救済だけを求めなさい。
そうすれば、彼はそれをあなたに与えるだろう。
(レッスン161 9:1-6)