この世界に前のめりになって参加しなければならないと思い込んでいて、この世界で目に付く善悪や損得や優劣に翻弄されていたけど、
私たちは「心」だった。
私は神に創られ、祝福されている。
ということは、全世界のすべての人も同じ。
それ以外の部分を見る必要がない。
それでも、肉体の眼は「差異」を見つけては裁こうとするが、
今はそれを全部、「訂正」へと持っていく。
私たちは神の子。
誰一人、肉体ではない。
この真実をゆるがすものはない。
そう思って世界を見渡すと、世界は優しいパレットになる。
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ワークブック
レッスン158
今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。
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あなたに与えられているものとは何だろうか。
それはあなたが心であるという智識である。
あなたは神の心の中にあり、ただ純粋に心として存在しており、愛によって創造されたので永遠に罪はなく、まったく怖れを知らない。そしてまた、あなたは自分の源を去ったことはなく、今も創造されたままにあり続けている。
これが、絶対に失いようのない智識として、あなたに与えられている。
それはまた、生きとし生ける一切ものもに与えられている。
この智識のみによって、生命あるものは生きているからである。
(1:1~5)
私たちはすでに終わっている旅に出るにすぎない。それでも、私たちには未知の未来があるように思える。
(3:6.7)
しかし現象の背後には、変わることのない一つの計画がある。
その台本もすでに書かれている
あなたの疑いを終わらせる体験が訪れる時も定められている。
私たちは旅の終わった時点からふりかえって、その旅を見ているだけであり、もう一度自分たちがその旅をしていると想像し、過ぎ去ったことを心の中で反芻している。
(4:2~5)
そこにおいて、疑念と影の世界が、形なきものとつながる。
ここに、世界の中にありながら、赦しと愛によって神聖になった静かな場所がある。
すべての対立はここで和解する。
ここでその旅が終わるからである。
(6:1~3)
キリストの心眼には一つの法則がある。
それは、肉体を見てもそれを神が創造した神の子と見間違うことはない。
それが見るのは、肉体を越えた光であり、触れることのできる有形のものを越えた一つの想念である。
(7:1~3)
これは教わることができるものであり、
それを達成したい者は誰でも、それを教えなければならない。
そのために必要なのは、この世界はわずかでもこれに匹敵するような価値のあるものを与えることはできないと認識することであり、この世界が掲げる目標はすべて、これが知覚されたときにはただ消えてしまうようなものばかりだと認識することである。
そして、今日あなたが与えるものとは、誰のことも肉体としては見ない、ということである。
誰のことも神の子と認めて挨拶し、聖性の中で彼は自分とひとつであると認めなさい。
(8:1~4)
こうしてその人は自分の罪を赦される。
キリストにはすべての罪を看過する力のある心眼があるからである。
(9:1)
自分の兄弟の中に見るものは自分自身にほかならないということを覚えてさえいれば、このレッスンを習得するのは難しくない。
(10:3)
啓示がいつ訪れるかは問題ではない。
それは時間に属さないものである。
(11:1)