何日か前から、寝て見る「夢」と現実という「夢」は同じだし、寝て見る「夢」も訂正が可能だと氣づいてから、寝て見る「夢」も訂正の対象にしている。
寝て見る「夢」では、いつも何か”取り繕っている”。
失敗を取り繕ったり、罪から免れようとしたり、何かを誤魔化したり、恐ろしい状況から自分だけ逃げてしまおうとしたりと、なんというか、セコイ感じだ。
この夢を簡単に分析してみると、「私って罪深くて卑怯だ」となる。
そして、そんな卑小な自分を隠すために、逆の「良い人間」を目標にかかげ、世界に投影し、世界を卑小なものにし、自分を「良い人間」に仕立てるために、叱咤激励する。
寝て見る「夢」も、起きて見ている「夢」も、同じことを捏造していて、寝て見る「夢」はより無防備だからこそ、抑圧している感覚が表出しているんだと思う。
なので、起床した後、しばらくはベッドの中で「訂正」をする。
夢で感じた感覚を逃さないようにして、それを聖霊に差し出す。
隠したくなる感覚や責めたくなる感覚を全部打ち明ける。
そして、「心」へと戻る意欲もお願いする。
そうすると、「何にもいらない」というような満ちた感覚が湧いてくる。
私たちは自分が思っていたようなものではなかった。
「心」だった。
どんな言葉が大事とか、行動で得るものとか、一過性に過ぎない何ものにも囚われる必要などなかった。
寝て見る「夢」で、罪悪を隠すための取り繕いは、現実世界での防衛の反応と等しい。
その瞬間に気づいて、その感覚を聖霊に渡しながら、「心」に戻る。
私たちは常に「心」だった。
この、「心」であるというハッキリとした自覚だけが必要だった。
この「心」は「光」「愛」に由来している。
「光」「愛」を反映している。
「頭(自我)」は唯一、「心」を「光」「愛」にチューニングする意志を持つときだけに使う。
この世界にいる唯一にして究極の目的は常にチューニングを怠らないことだけ。
「神と神の国を守るためだけに警戒していなさい」ということなのだ。
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ワークブック
レッスン157
今、私はキリストの隣在の中へ入っていく。
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今日は沈黙と信頼の日である。
それは、あなたの暦の上で特別な約束の時である。
天国は、この日を選んでその上に輝き、永遠のこだまが聞こえる今日という日に、時間を超越した光を投げかけている。
今日という日は神聖である。
これまでとは異なる種類の気持ちと自覚という新しい体験を招き入れるからである。
あなたはこれまで、昼も夜も、死を祝うことを長々と時間をかけてきた。
今日、あなたは生命の喜びを感じることを学ぶ。
(1:1~6)
今、私たちは新しい次元を加える。
それは、すでに学んできたことのすべてに光を投げかけ、まだ学んでいないことのために準備を整える新しい体験である。
(2:1.2)
今日から、あなたの司牧の職務は真の献身となって熱意を帯び、それがあなたの指先が触れる人々へ伝わり、あなたが見る人々を祝福する。
心眼は、あなたが出会う誰にでも届き、あなたが思い浮かべる人やあなたを思う人の一人ひとりにも届く。
今日のあなたの体験はあまりに心を変容させるので、それが、「神聖な神の想念」というものを識別するための目安となるからである。
(5:1~3)
あなたの肉体は今日、聖別される。
今やその唯一の目的は、世界を照らすために、この日にあなたが体験するものを見る心眼を運んでいくことだけとなる。
このような体験は、私たちが直接与えることができるものではない。
だが、その体験は私たちの目に心眼を残し、それを私たちは誰にでも差し出すことができる。
それにより、世界が静かに忘れ去られて、しばしの間、天国を思い出すという同じ経験に、誰もがいっそう早くたどり着けるようになる。
(6:1~3)
私たちは今、キリストの臨在の中に入っていく。
キリストの輝く笑顔と完璧な愛以外に何も意識せず穏やかに。
キリストの顔を見る心眼はあなたとともにとどまるだろう。
しかしこの最も神聖な心眼さえも超越してしまう一瞬がある。
それはあなたが学んで得たものではないから、あなたがそれを教えることはない。
しかしその心眼は、あなたがその瞬間に知ったこと、そして必ず再び知るだろうことについてのあなたの記憶を物語るものである。
(9:1~4)