ずっと「兄弟をゆるす」という言葉に拒否反応があった。
それは、自分の中に「個」として、「特別な存在」としての”判断”が居座っていたから。
「あれはいいけど、これはだめ」。
どんな些細なことであっても、すべてを看過するまでは、「個」は居座り続ける。
だけど、その些細な拒否が私を攻撃し続ける。
居心地の悪さとつながり続けている。
その些細な拒否、言い張り、判断を、ただそのままそこに置く。
そして、「わからなさ」に飛び込む。
個人の言い張りの泣き叫びの中を通り抜けて、そのまま身をゆだねる。
私は何も見ていなかったことに気づく。
個という特別性の催眠から目覚めると、すべてが優しい光で静かに輝いていた。
私たちの無罪性がすべてを透明に見せてくれた。
聖性の中、何もかもが祝福だった。
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ワークブック
レッスン335
私は兄弟の無罪性を見ることを選択する。
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赦しは選択である。
私は決して兄弟をありのままに見てはいない。
兄弟の本性は知覚をはるかに超えているからである。
私が兄弟の中に見ているのは、自分が見たいと思うものだけである。
なぜなら、それは真理であってほしいと私が思うものを表しているからである。
どれほど下界の出来事が私を駆り立てているように思えても、私はこのことだけに応答している。
私は自分が見たいものを見ることを選択し、ただそれだけを見る。
兄弟の無罪性は、私が自分の無罪性を見ようとしているということを教えている。
そして私は、兄弟をその神聖な光の中に見ることを選択したので、自らの無罪性を見るだろう。
兄弟の無罪性を見ること以外に何が、あなたについての記憶をわたしに呼び戻してくれるでしょう。
彼の無罪性は、彼が私と一体のものとして、私と同じように創造されたということを、思い出させてくれます。
私は彼の中に私の自己を見出し、あなたの子の中にあなたについての記憶を見つけます。
(全文)