【奇跡講座】の気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

用語の解説 5.イエスーキリスト

エスもわたしも、わたしたちもすべて、天国から一度も離れていない。

 

罪も罪悪も夢。

 

この世界を優しく看過し、麗しい被造物だけが輝いている。

 

ここ以外、なにもない。

 

すべてが光。

 

・・・

用語の解説 5.イエスーキリスト

 

あなたは一度も天国から離れていないので、そこに入るために助けは必要ない。

しかし、あなた自身を超えたところでは、助けが必要である。

なぜなら、実相において神のみが定めたあなたのアイデンティティーについて、あなたは間違った信念を抱いており、それにより束縛されているからである。

助け主たちは数多くの形態であなたに与えられるが、祭壇の上では、それらはひとつである。

それぞれの形態の向こうにはひとつの神の想念があり、これは決して変化しない。

しかし、しばらくの間は、それらにはいくつもの異なった名前がついている。

なぜなら、時間は、それ自体が実在しないので、象徴を必要とするからである。

それらの名前は数多くあるが、私たちはこのコース自体が用いている名前以外は使わない。

神は必要というものを知らないので、助けることはしない。

それでも、神の子が自分の空想が真実だと信じている間は、神は神の子のためのすべての助け主たちを創造する。

あなたを家まで連れ帰ってくれる彼らのことを、神に感謝しなさい。

 

エスという名は、ひとりの人間でありながら、自分のすべての兄弟たちのうちにキリストの顔を見て、神を思い出した者の名前である。

したがって彼はキリストと同一化し、もはや人ではなく神とひとつのものとなった。

人としての彼は幻想であった。

なぜなら彼も、すべての幻想がそうであるように、彼の自己を真の自己から離しておくかに見える肉体の中に居て、一人で歩いている分離した存在のように見えていたからである。

しかし、幻想を見た上でそれらを幻想であると識別しない限り、誰にも、救うことなどできない。

エスは、偽りを見てそれを真実と受け入れなかったからこそ、救済者であり続けているのである。

そしてキリストはイエスという人の形を必要としたが、それは彼が人々の前に現れて、彼ら自身の諸々の幻想から彼らを救い出せるようにするためであった。

 

エスは、自らを完全にキリストと同一であると認識したことにおいて、すなわち、常しえに神ご自身と同質で、神とひとつである完全無欠な神の子、神の一なる被造物、神の幸福であると認識したことにおいて、あなた方全員でもあるはずの存在となった。

彼はあなたが後についてこられるようにと道を先導した。

彼の目の前に広がる道を見て、そこを進んでいったからこそ、彼はあなたを神のもとへと連れ帰るのである。

彼は、あなたにとってはまだ曖昧な、偽りと真実の間の区別を明確にした。

かれが最終的に実証したのは、神の子を殺すことは不可能であるばかりか、神の子の生命は、罪や悪や悪意や恐れや死によってさえ、どのように変化させることもできない、ということであった。

 

それゆえに、あなたのすべての罪は赦されている。それらはまったく何の結果ももたらさなかったからである。

すなわち、それらはただの夢にすぎなかったのである。

このことをあなたに見せてくれた彼と共に目覚めなさい。

あなたの夢がかき消されるようにとそれらを共有してくれた彼に、あなたは恩義があるからである。

そして、彼はあなたとひとつでいられるように、今もなお、それを共有している。

 

彼はキリストだろうか。

もちろんそうであり、そしてあなたもそうである。

地上における彼のささやかな生涯は、彼があなた方全員のために習得した強力な教えを、あなた方に教えるには短すぎた。

あなたが自分で作り出した地獄から、あなたを神のもとへ導いていくために、彼はあなたと共にあり続ける。

そしてあなたが自分の意志を彼のそれと合一させるとき、あなたの視覚は彼の心眼となる。

キリストの目は共有されているからである。

彼と共に歩むことは、生まれたときからよく知っている兄と共に歩むのと同じように自然なことである。

実際、彼はそのような存在だからである。

彼は世界にとって兄となろうとしただけだというのに、彼についていくつもの苦々しい偶像が作り出されてきた。

あなたの幻想について、彼を赦しなさい。

そして彼があなたにとっていかに大切な兄であるかを見なさい。

彼はあなたの心についに安息を与え、あなたと共に、神のもとへとその心を運んでいくだろう。

 

彼は神からの唯一の助け主だろうか。

いや、まったくそうではない。

なぜなら、キリストは、どの名前も同一のものだと認識されるまでは、さまざまに異なる名前をもつ多くの形態で現れるからである。

しかしあなたにとっては、イエスが、神の愛についてのキリストの単一のメッセージを伝える者である。

あなたには他に誰も必要ない。

彼をあなたの生活の中に受け入れずに彼の言葉を読むだけでも、そこから何かを得ることはできる。

しかし、もしあなたが自分の苦しみや喜びを彼に打ち明け、その両方を後にして神の平安を見つけようとするなら、彼はあなたをもう少し助けられるだろう。

それでも、彼が何よりもあなたに学んでほしいと望んでいるのは彼のレッスンであり、それは以下の通りである。

 

神の子は同質のものであるから、死は存在しない。

あなたの為し得るいかなることも、永遠の愛を変えることはできない。

罪や罪悪感の夢は忘れてしまいなさい。

そしてその代わりに、神の子の復活を共有するために、私と一緒に来なさい。

そして私があなたを大切にしているように、あなたも神があなたのところへ遣わした者たちを大切に思い、彼ら全員を共に連れていきなさい。

用語の解説 4.真の知覚ー知識

わたしたちがゆだねたままでいいのは、わからないままでいいのは、それ以外なにも必要ないから。

 

見ている世界がなにもないのなら、そして身体でもないのなら、そして状態でもないのなら、もう打つ手はないし、打つ手など必要ないのだ。

 

そのことを認めるのが本当に難しかったけど、どうしたってお手上げなわけで、そういうわけで、もう全体性へと落ちるだけだ。

 

神の祭壇という全体性へ落ちる。

 

これだけ。

 

そして、アメージング。

 

恵みの中へ。

 

・・・

用語の解説 4.真の知覚ー知識

 

あなたの見ている世界は、世界のように見える幻想である。

神はそれを創造しなかった。

なぜなら、神が創造するものは、神ご自身と同じく永遠ならざるを得ないからである。

ところが、あなたが見ている世界には、永遠に続いていくものは何もない。

いくつかのものは、他のものよりも少し長く時間の中に存続するだろう。

しかし、いずれは、目に見えるすべてのものが終わりを迎える時がくる。

 

したがって、肉体の目は実相世界を見ることを可能にするような手段ではない。

なぜなら、肉体が見ている幻想は、現実のように見える幻想をさらに増やすことにならざるを得ないからである。

そして、確かにそのようになる。

というのも、肉体の目が見るすべてのものは持続しないばかりか、罪や罪悪の想念を助長するものとなるからである。

一方、神が創造したものはすべて、永遠に罪はなく、したがって、永遠に罪とは無縁である。

 

知識は偽りの知覚の治療法ではない。

それは別のレベルにあり、両者は決して出合うことがない。

偽りの知覚に対する唯一の可能な訂正は、真の知覚でなければならない。

それは永続しない。

しかし、続いている間は、癒されるために訪れる。

というのも、真の知覚とは、数多くの名前で呼ばれる治療法だからである。

赦し、救済、贖罪、真の知覚、これらはみな同じものである。

それらは一つの始まりであり、最後にはそれら自体をはるかに超えた一体性へと導く。

真の知覚が、世界を罪から救い出す手段である。

なぜなら、罪は存在していないからである。

そして、真の知覚を見るのは、このことである。

 

世界はキリストの顔の前に、障壁のように立ちはだかっている。

しかし真の知覚がそこに見るのは薄いベール以上のものではなく、それはまったく楽々と剥ぎ取ることができるので、ほんの一瞬そこにあるだけのものである。

ついにそれが、ただありのままに見られる。

そして今や、それは消え失せないわけにはいかない。

なぜなら、今ではそこにきれいに準備された空白の場所があるからである。

破壊が知覚されていたところにキリストの顔が現れ、その瞬間、世界は忘れ去られる。

そして、虚無から生じた世界が虚無の中へと舞い戻るとき、時間も永久に終わりを告げる。

 

世界は、赦されたなら存続できない。

それは肉体たちの住居であった。

しかし赦しは肉体たちを通り越して見る。

これが赦しの聖性であり、このようにしてそれは癒すのである。

肉体の世界は罪の世界である。

肉体があってこそ罪も可能となるからである。

罪からは確実に罪悪感が生じ、それと同じく確実に、赦しはすべての罪悪感を取り去る。

そしてすべての罪悪感がなくなったなら、分離した世界をそのままそこに保つ何が残っているだろう。

そのときには場所も時間と一緒に消え去っている。

世界を実在するかに見せているのは、肉体だけである。

なぜなら、分離したものである肉体が、分離が不可能なところにとどまることはできないからである。

赦しは肉体を見ないので、分離が不可能だと証明する。

そのときにあなたが看過するものは、もはやあなたには理解不可能なものとなっているが、かってのあなたはその存在を確信していたのである。

 

真の知覚がもたらす変化とは次の通りである。

外に投影されていたものが内側に見られ、そこで赦しがそれを消滅させる。

というのも、そこに神の子への祭壇が据えられ、そこで父が思い出されるからである。

ここですべての幻想は真理のもとへ運ばれ、その祭壇の上に置かれる。

外側に見えているものは、赦しの及ばないままにならざるを得ない。

なぜなら、それは永遠に罪深いものに見えるからである。

罪が外にあると見なされているうちは、どこに希望があるだろう。

罪悪感にとって、どんな治療法が期待できるというのだろう。

しかしそれがあなたの心の内側に見られたなら、罪悪感と赦しは一瞬の間、一つの祭壇の上に隣り合わせで一緒に置かれることになる。

そこでついに、病気とその単一の治療法が結びつき、一なる癒しの輝きとなる。

神がご自身のものを取り戻すために訪れたのである。

こうして赦しは完了する。

 

そして今や、不変にして確実で、清らかにして完全に理解可能な神の知識が、自らの王国に入ってくる。

知覚は、偽りのものも真のものも、同じように過ぎ去っている。

赦しも、その任務を終えたので、過ぎ去っている。

そして肉体も、神の子への祭壇の燦然と輝く光の中で、消失している。

神はその祭壇が彼のものであると同時に、ご自身のものでもあることを知っている。

そしてここで、父と子はひとつにつながる。

なぜなら、ここでキリストの顔がその光で時間の最後の一瞬を消し去り、もはや、世界の最後の知覚には目的も原因もなくなっているからである。

ついに神についての記憶がよみがえったところには、旅もなければ、罪への信念もなく、壁も肉体もない。

罪悪感と死の残酷な魅力は、そこで永久に消滅する。

 

私の兄弟たちよ、神の心の中であなた方を包み込み安全に清らかに麗しく保つ平安を知ってさえいたなら、あなた方は神の祭壇の前で神に会うために、すぐさま駆けつけずにはいられないだろう。

あなたの名と神の名があがめられんことを。

なぜなら、それらはこの聖なる場でひとつにつながっているからである。

ここで神は身をかがめてあなたをご自身のもとへと抱き上げ、幻想から聖性へ、世界から永遠へ、そしてすべての恐怖から愛のもとへと、戻してくれる。

用語の解説 3.赦しーキリストの顔

赦し、という性質は、この世界の幻想の中で、もっとも「正気(天国)」に近いもの。

 

赦し、という知覚のみが、幻想の世界に機能できる、唯一のもの。

 

赦し、とは「ないものをない」と認めること。

 

壊れるものは、最初から「ない」。

 

そこに期待や一縷の望みをかけ、叶えられないことに怒り、落胆するという「罪」の連鎖から離れる機能が「赦し」。

 

形であるものはすべて「罪」の象徴。

 

身体も、言葉も、関係の形も、とにかく、掴めるものはすべて、最初から「ない」。

 

それを握りしめず、放ち、自由にしてあげることが「赦し」。

 

・・・

放つには、「見て、感じて、感じ切って、それが看過されるままにする」。

 

・・・

用語の解説 3.赦しーキリストの顔

 

赦しは、神のためのものであり、神へと向かうものであるが、神に属するものではない。

神が創造したもので赦しが必要なものなど考えられない。

それならば、赦しは幻想である。

しかし、その目的は聖霊の目的であり、それゆえに、赦しには一つの相違がある。

他のすべての幻想とは異なり、それは誤りへと向かうのではなく、誤りから遠ざかる方向へと導く。

 

赦しは一種の幸せな作り話と呼べるかもしれない。

それは、知らざる者たちが自分の知覚と真理との間の隔たりに橋を架けることのできる道である。

彼らは知覚から知識へと直行することはできない。

そうすることが自分の意志だとは思っていないからである。

これにより、神が真にありのままの神ではなく敵であるかに見えている。

そして、この狂った知覚のみによって、彼らは、ただ立ち上がって平安の内に神のもとに戻るということを、厭うようになっている。

 

したがって彼らは、自分ではどうしようもないがゆえに助けという幻想を必要としており、葛藤の中に居るがゆえに平安の想念を必要としている。

神は、わが子が求めるより先に何が彼に必要かを知っている。

神は形態については少しも気にかけない。

しかし、神は内容を与えたので、それが理解されることが神の意志である。

そして、それで充分である。

形態は必要に応じて変わるが、内容は不変であり、その創造主と同じように永遠である。

 

神についての記憶が戻ってこられるようになるには、その前にまず、キリストの顔が見られなければならない。

その理由は明白である。

キリストの顔を見ることには知覚が伴う。

誰も知識を見ることはできない。

しかしキリストの顔は、赦しの大いなる象徴である。

それは救済である。

実相世界の象徴である。

それを見る者は誰でも、もはや世界を見なくなる。

彼は天国の門の外では最も天国に近いところにいる。

この門からは、あと一歩で中に入ることができる。これが最後の一歩である。

そしてこれを、私たちは神に委ねる。

 

赦しも象徴である。

しかし、神の意志のみを象徴するものであるから、それは分割できない。

それゆえに、赦しが映し出している一体性が、神の意志となる。

それは部分的にはまだこの世界にありながらも、天国への架け橋となる唯一のものである。

 

神の意志が、存在のすべてである。

私たちはただ、無から有へ、地獄から天国へと進むことができるだけである。

これは旅だろうか。

いや、真理においてはそうではない。

真理はどこにも行かないからである。

しかし幻想は、場所によっても時間によっても、移り変わる。

最後の一歩もまた一つの移行にすぎない。

それは知覚であるから、その一部は実在しない。

しかし、この部分はいずれ消え去る。

あとに残るのは、常しえの平安と神の意志である。

 

もはやいかなる願望も存在しない。

願望は変化するものだからである。

かって願われたものでさえ、歓迎されなくなることがあり得る。

それは当然である。

自我は安らかでいることはできないからである。

しかし意志は神の贈り物であるから、恒常である。

そして神が与えるものは常に、ご自身と同質のものである。

これがキリストの神の目的である。

それはわが子を救うための神からの贈り物である。

ただこれだけを見なさい。

そうすれば、あなたは赦されている。

 

そのほんの一瞬の間、あなたがそこに自分自身についての真理が映し出されているのを見るとき、世界は何と麗しいものになることだろう。

今やあなたに罪はなく、あなたは自分の無罪性を眺める。

今やあなたは神聖であり、世界をそのように知覚する。

そして今、心は自らの創造主のもとへ帰る。

それが、父と子の合一であり、すべてのつながり合いの背後にありながらもそれらすべてを超越した、あらゆる一体性の中の一体性である。

神は見られることなく、ただ理解する。

神の子は攻撃されることなく、認識される。

用語の解説 2.自我ー奇跡

赦す。

 

「見て、見過ごす」。

 

「地獄を地獄と見る」。

 

そして地獄は幻想だと知っていることを認める。

 

反応は不可能だった。

 

世界に反応できないのは、それが幻だから。

 

この世界で名づけられないもの。

 

それだけがリアル。

・・・

用語の解説 2.自我ー奇跡

 

幻想は永続しない。

その死滅は確実であり、このことのみが、幻想の世界において確実なことである。

このことのゆえに、それが自我の世界なのである。

自我とは何だろうか。

それは、本当のあなたとは何であるかを描いた夢にすぎない。

自分が創造主から分離しているという想念であり、創造主が創造しなかったものになりたいという願望である。

それは狂気の沙汰であり、まったく実相などではない。

名なきものに付けられた名前にすぎない。

不可能な象徴であり、存在しない選択肢を選ぶ選択である。

私たちがそれに名前を付けているのは、それは「作り出されたものに不滅性がある」という往古の想念でしかないということを、自分が理解できるよう助けるためにすぎない。

しかし、こうした想念から生じることができるのは、すべての夢と同じく死によって終わるだけの夢のみではないだろうか。

 

自我とは何だろうか。

何ものかに見える形をした虚無である。

形態の世界では、自我のみが実在するように見えるので、自我を否定することはできない。

だが、神に創造されたままの神の子が、形態の中や、形態の世界の中に住むことができるだろうか。

自我を定義して、それがどのようにして生じたのか説明してほしいと求める者は、自我が実在すると思っている者でしかあり得ない。

そして彼は、定義することによって、自我をそのようなものに見せかける言葉の背後に、自我の幻想性を確実に隠蔽しておこうとする。

 

嘘を真実にするのに役立つ嘘の定義などというものはない。

また、嘘がうまく隠しおおせる真理などというものもあり得ない。

自我の非実在性が言葉によって否定されることはなく、自我の特性に形があるかに見えるからといって、その意味が明確になるわけでもない。

定義しようのないものを、誰が定義できるだろう。

そうは言っても、ここにさえも答えはある。

 

私たちは自我とは何かを実際に定義することはできないが、自我ではないものについてであれば、語ることができる。

そしてそれは、私たちに実にはっきりと示されている。

そこからであれば、自我というものの全容を演繹できる。

その対極にあるものを見なさい。

そうすれば、唯一の有意義な答えが見えるようになる。

 

起源、結果、所産などのあらゆる点で自我の対極にあるものを、私たちは奇跡と呼ぶ。

そしてそこに、この世界の中にあって自我ではないもののすべてを見出す。

ここに自我の対極をなすものがあり、ここにおいてのみ、私たちは自我とは何であったかを見る。

なぜなら、そこからは、自我が行ったように思えたことの全容が見え、原因とその結果は今も同一であるはずだからである。

 

かって闇があったところに、今、私たちは光を見ている。

自我とは何か。

かって闇であったもののことである。

自我はどこにあるのか。

闇があったところにある。

それは今は何であり、どこで見つかるのか。

それは無であり、どこにも見つからない。

今では光が訪れている。

その対極をなすものは跡形もなく消え去った。

かって悪があったところに、今は聖性がある。

自我とは何か。

かって悪であったもののことである。

自我はどこにあるのか。

夢を見ていた間は本当のことに思えただけの、悪の夢の中にある。

かって十字架刑があった場所に、神の子が立っている。

自我とは何か。

それを問う必要のある者などいるだろうか。

自我はどこにあるのか。

夢が過ぎ去った今、幻想を探し求める必要のなる者などいるだろうか。

 

奇跡とは何か。

奇跡もまた、夢である。

しかし、この夢のすべての側面を見るなら、あなたはもはや問うことはしないだろう。

柔和さの中を歩むあなたの前に広がる優しい世界を見なさい。

あなたが旅する道で出会う助力者たちが、天国の確実さと平安の確かさに包まれた幸福な者たちであるのを、見なさい。

そしてまた、ついにあなたが後にし、通り過ぎたものも、一瞬だけ振り返って見てみなさい。

 

それが自我であった。

あの残酷な憎悪、復讐の必要と苦痛の叫び、死ぬことへの恐れと殺したい衝動、同胞なき幻想と全宇宙の中でひとりきりに見えた自己、こうしたすべてに自我があった。

あなた自身についてのこの恐ろしい思い違いを、奇跡が、あたかも愛情深い母親がわが子に子守歌を歌うように優しく訂正する。

あなたが聞きたいのは、このような歌ではないだろうか。

それが、あなたが尋ねようと思ったことすべてに答え、その質問さえも無意味にするのではないだろうか。

 

あなたの質問は神の声を沈黙させるために作り出されており、それには答えがない。

神の声は誰にでも一つの質問をするだけである。

「あなたには、私が世界を救う手助けをする準備がもうできているだろうか」と。

この問いを、自我とは何かと問う代わりに尋ねなさい。

そうすればあなたは、自我が作り出した世界がにわかに輝きに包まれるのをみるだろう。

今や、誰に対しても奇跡が与えずにおかれることはない。

世界は、あなたが「世界」だと思っていたものから救われている。

そして、ありのままの世界は、まったく咎められておらず、まったく清らかなものである。

 

奇跡は赦し、自我は断罪する。

どちらも、これ以外の定義を必要としない。

だが、これ以上に確かで、これ以上に救済の本質に合致している定義があるだろうか。

ここには問題と答えがあり、両者がついて揃ったからには、どちらを選ぶべきがは明らかである。

地獄が地獄だと認識されたとき、それを選ぶ者がいるだろうか。

そして、道のりは短く、自分のゴールは天国であると理解できるときに、あと少しの間進み続けることを嫌がる者がいるだろうか。

用語の解説 1.心ー霊

声高々に主張するからといって「自我」には何の力もない。

実体がない。

 

どんなにそれが重要に見えても、どんなにそれに価値があるように演出しても。

 

その喧噪に愛の泣き叫びを感じたら、もう素直に降参するだけ。

 

これまで、間違ったところ、あるいは限定されたものから視線を離さずにいただけ。

 

そして、これからは、ただ見て、見過ごすのみ。

 

知覚を超えられないわたしたちは、見て、見過ごして、空にあずける。

 

祝福が立ち起こるままに。

 

・・・

用語の解説 1.心ー霊

 

心という言葉は、創造エネルギーを供給して霊を活性化させる主体を表すために使われている。

この言葉が太文字で表記されている場合は、神またはキリストを指している。(神の心、キリストの心など。)

霊とは、神がご自身に似せて創造した神の想念である。

統一された霊とは、神のひとり子、すなわち、キリストのことである。

 

この世界では、心が分裂しているがゆえに神の子らが分離しているように見える。

また、彼らの心がつながり合っているようにも見えない。

こうした幻想状態においては、「個人の心」という概念に意味があるように見える。

したがって、このコースでは、心はあたかも霊と自我という二つの部分があるかのように描写されている。

 

霊とは、聖霊を通して今も神と接触を保っている部分であり、聖霊はこの部分に宿っているが、もう一方の部分も見ている。

「魂」という言葉は、非常に論争を引き起こしやすいため、聖霊からの直接の引用以外では使われていない。

とはいえ、それは神に属するものであるから永遠であって一度も生まれたことのないものだと理解するなら、「霊」の同義語と言える。

 

心のもう一方の部分は、全面的に幻想であり、ただ幻想を作り出すのみである。

霊は創造するための潜在力を維持してはいるが、神の意志でもある霊の意志は、心が統一されていないうちは幽閉されているように見える。

創造は神の意志であるから、衰えることなく続いている。

この意志は常に統一されており、したがってこの世界においては意味をもたない。

それには対極もなければ、程度の差もない。

 

心はどちらの声に耳を傾けるかによって、正しいものにも、間違ったものにもなる。

正しい心の状態は聖霊に耳を傾け、この世界を赦し、キリストの心眼を通して、この世界に代わるものとしての実相世界を見る。

これが最終の心眼であり、最後の知覚であり、この状態において、神ご自身が最後の一歩を踏み出す。

ここで、時間と幻想が共に終焉を迎える。

 

間違った心の状態は自我に耳を傾けて幻想を作り出し、罪を知覚して怒りを正当化し、罪悪や病気や死を実在のものと見なす。

こうした世界も実相世界も、両方とも幻想である。

なぜなら、正しい心の状態は単に、一度も起こったことのないものを看過するだけ、すなわち赦すだけだからである。

したがって、それは神の意志とひとつの意志をもつキリストの心の一なる心の心の状態ではない。

 

この世界においては、残されている唯一の自由は選択の自由であり、それは常に二つの選択肢の間で。すなわち、二つの声の間で為される選択である。

意志は、いかなるレベルにおいても知覚に介入することはなく、選択にはまったく関与しない。

意識は受け取るための機構であり、上もしくは下から、すなわち、聖霊もしくが自我から、メッセージを受け取っている。

意識には複数のレベルがあり、自覚がかなり劇的に変化することはあり得るが、知覚の領域を超えることはできない。

最も高いレベルでは、意識は、実相世界を自覚するようになり、それを一層良く自覚するよう訓練されることが可能である。

しかし、それが複数のレベルをもっていて訓練されることが可能だという事実そのものが、意識は知識に達することはできないことを実証している。

マニュアル編 用語の解説 序文

「言葉」の必要がない世界がわたしたちの本当の居場所。

 

これは「体験」によってのみ「体験」される。

 

質問がなくなったとき、この一つという真実が体験される。

 

看過(スルー)の理由を探さなくても、看過(スルー)しかできないことに気づく。

 

でも、今、「言葉」の世界に居る間の機能として、「言葉」にてわかち合われ、それにより看過(スルー)は完了していくのだなぁ、と。

 

 

・・・

マニュアル編 用語の解説 序文

 

これは哲学的思弁に関するコースではなく、厳密な語義にこだわるものでもない。

贖罪のみに、すなわち、知覚の訂正のみに関するものである。

贖罪の手段は赦しである。

「個人の意識」の構造といったものは、もとより、対象外である。

なぜなら、それは「原初の誤り」すなわち「原罪」表象する概念だからである。

誤りを看過することに真に成功をしたいのなら、誤りそのものを研究しても訂正にはつながらない。

そしてこのコースが照準を合わせているのは、この看過のプロセスのみである。

 

すべての用語には論争の余地があり、論争を求めるものたちは論争を見出すだろう。

だが、同様に、解説を求める者たちは、解説を見出す。

ただしそのためには、彼らは、論争とは真理に対する防衛が遅延戦略の形をとったものだと認識して、論争を看過しょうとする意欲をもたねばならない。

神学的考察といったものには必然的に論争の余地がある。

というのも、そうしたものは信念に左右されるので、受け入れることも拒否することもできるからである。

ここにおいてのみ一貫性が可能となる。

なぜなら、ここにおいてのみ、不確実性が終わるから普遍的な神学は不可能だが、普遍的な体験は可能であるばかりか、必要である。

このコースは、その体験へと向かうものである。である。

 

このコースは、それが必要とされている場である自我の枠内にとどまる。

すべての誤りを超えたところにあるものには関与しない。

なぜなら、これはそこに向かうべき進路を定めるためのみに計画されているコースだからである。

したがって、このコースは言葉を用いる。

そして言葉は象徴的なものであり、象徴を超えたところにあるものを表現することはできない。

疑うは自我のみであるから、質問をするのも自我のみである。

このコースはただ、質問が発せられたなら、別の答えを与えるだけである。

しかしその答えは創意工夫や巧妙さに頼ろうとはしない。

そうしたものは自我の属性である。

このコースは単純である。

一つの機能と、一つのゴールがあるだけである。

この点においてのみ、このコースは完全に首尾一貫しているが、その理由は、この点のみが一貫したものとなり得るからである。

 

自我は、このコースが与えない多くの答えを要求するだろう。

質問の形をしているだけで答えが不可能なものを、このコースは質問として認識しない。

自我は、「どのようにして、不可能なことが起こったか」「不可能なことが、何に対して起こったのか」と尋ね、しかも、数多くの形で尋ねるかもしれない。

だが、それには答えがない。

ただ体験があるのみである。

これだけを求めなさい。

神学によって、あなたの歩みを遅らせてはならない。

 

あなたにもすぐわかる通り、このコースにおいては、構造に関する話題を重点的に取り上げている部分は短く、最初の方に見られるのみである。

それ以降はすぐに、中心的な教えに移っていく。

しかしあなたが解説を求めたので、使用されている用語のいくつかについて、以下に述べておく。

 

二十九.その他のこと

そうだった。

 

わたしは「ただの人」だ。

 

それを認めるのがいやだった。

 

もっと言えば「ただのおばちゃん」だ。

 

おばちゃん、という響きに抵抗があるけど、でも、「何者でもない」ことに、めちゃくちゃホッとする。

 

そうだそうだ。

 

「ただのおばちゃん」を認めると、「神の子」もすんなりと受け入れられる。

 

ほんのわずかな抵抗だったけど、抵抗にも序列はない。

 

抵抗に大きいも小さいもない。

 

抵抗は抵抗だった。

 

もう、この世界でのポジションに一切こだわらなくていい。

 

気楽なおばちゃんのまんま、「気づきのわかち合い」三昧でいよう。

 

ホッとした。

 

何も取り繕わなくていい。

 

素直にそのまんまでいよう。

 

昨日の「日本刀」のおかげで、バッサリと自我を切れたのだと・・・。

 

二十九.その他のこと

 

このマニュアルは、教師と生徒が尋ねるかもしれない質問のすべてに答えようとするものではない。

実は、「テキスト」と「ワークブック」の中の主要な概念のいくつかの簡潔な要約という形で、比較的明解なものといくつか取り上げているだけである。

「テキスト」と「ワークブック」のどちらかの代わりとなるものではなく、たんなる補足にすぎない。

「教師のためのマニュアル」と呼ばれてはいるが、教師と生徒を隔てるのは時間のみであり、両者の違いはその定義から言っても一時的なものだということを、覚えておかねばならない。

場合によっては、生徒にとって、この「マニュアル」を最初に読むことが役に立つかもしれない。

あるいは、「ワークブック」から始めたほうがよい者たちもいるだろう。

さらに他の者たちは、「テキスト」で、もっと抽象的なレベルから始める必要があるかもしれない。

 

どれがどれに当てはまるのか。

ただ祈るだけのほうが益となる者は誰か。

多くを学ぶ準備がまだできていないので、微笑んでもらうだけでよい者は誰か。

誰も、こうした質問にひとりで答えようとすべきではない。

まさか、このことに気づかずにここまできたという神の教師は、ひとちもいないことだろう。

このカリキュラムは個々人に即したものとなっており、そのすべての側面が聖霊の特別な配慮と指導のもとにある。

尋ねなさい。

そうすれば、聖霊は答えるだろう。

その責任は聖霊にあり、聖霊だけがそうした責任を担うに適している。

そうすることが、聖霊の機能である。

質問を聖霊に委ねることが、あなたの機能である。

あなたは自分ではほとんど理解していない決断について、責任を取りたいと思うのだろうか。

あなたには、間違いを犯すことのあり得ない教師がついていることを喜びなさい。

彼の答えは常に正しい。

あなたは自分の答えについて、そのように言えるだろうか。

 

聖霊に決断を委ねる頻度を増やしていくことには、もう一つの別な利点があり、それは非常に重要な利点である。

あなたはこの側面について考えてみたことはないかもしれないが、その重要性は明らかである。

聖霊の指導に従うということは、自分自身を罪悪から赦免してもらうことである。

これが贖罪の真髄である。

これがこのカリキュラムの核心である。

自分自身の機能ではないものを横領していると思い込むことが、恐れの基盤である。

あなたの見ている世界全体に、自分がそれを行ったという幻想が反映されており、それが恐れを避けられないものとしている。

したがって、その機能をその持ち主に返すことが、恐れから逃れる道である。

そしてこれが、愛の記憶をあなたに戻すことになる。

それならば、聖霊の導きに従う必要があるのは単に自分が力不足だからだと、考えてはならない。

それは、あなたにとって地獄から抜け出す道なのである。

 

ここにもまた、このコースの中でたびたび言及された逆説がある。

「私は自分だけでは何一つできない」と言うことが、すべての力を手に入れることである。

だが、これは逆説のように見えるだけである。

神が創造したままのあなたは、すべての力を所有している。

あなたが自分自身を表すものとして作り出した形象には何の力もない。

聖霊はあなたについての真理を知っている。

あなたが作り出した形象はそれを知らない。

ところが、この形象は、明らかに完全に無知であるにもかかわらず、自分はすべてのことを知っていると思い込んでいる。

その理由は、あなたがそうした信念をそれに与えたからである。

これが、あなたが教えていることであり、その形象を維持するために作り出されたこの世界が教えていることでもある。

しかし真理を知っている教師は、真理を忘れてはいない。

彼が決断することにはまったく攻撃性がないので、すべての者たちに恩恵をもたらす。

したがって、罪悪感を喚起することはできない。

 

自分が所有していない力を装う者は、自分自身を欺いている。

だが、神から授かった力を受け入れるということは、自分の創造主を認めて、創造主からの贈り物を受け入れることに他ならない。

そしてその贈り物に制限はない。

自分のために決断してくれるよう聖霊に求めるというのは、単に、自分が真に受け継いでいる賜物を受け入れることにすぎない。

これは、聖霊に相談せずには何も語れないという意味だろうか。

いや、まったくそうではない!

そうだとしたら実用的ではなくなる。

そして、このコースが最も気にかけているのは実用性である。

もしあなたが、自分にできる時や場所で助けを求めるということを習慣として身につけたなら、必要なときには自分に叡智が与えられると確信してよい。

毎朝このために準備をし、一日中、神を思い出せるときには思い出し、聖霊に助けを求めることが可能なときはそれを行い、夜には、その導きについて聖霊に感謝しなさい。

そうすれば、あなたの確信はまさにしっかりと根拠に裏打ちされたものとなる。

 

決して忘れてならないのは、聖霊はあなたの言葉に頼ってはいないということである。

聖霊はあなたの心からの願いを理解し、それに答える。

これは、攻撃があなたにとって魅力的であり続けている間は、聖霊も悪をもって応じるという意味になるのだろうか。

そうではない!

なぜなら、神は聖霊に、あなたの心の祈りを聖霊の言語に翻訳する力を与えたからである。

聖霊は、攻撃とは助けを求める呼びかけだということを理解している。

そしてそれに即して、助けをもって応答する。

もし神があなたの言葉でご自身の言葉が置き換えられることを容認するとしたら、神は残酷だということになる。

子を愛する父は、その子が自分自身を傷つけたり、自分で自分の身を滅ぼす選択をするようなことはさせない。

子供は自分が傷つくようなことを求めるかもしれないが、その子の父はそれでもわが子を守ろうとする。

あなたの父はそれよりもはるかに深くわが子を愛しているのではないだろうか。

 

あなたは神を完成するものであり、神の愛そのものであるということを、思い出しなさい。

そして、あなたの弱さが神の強さであることを思い出しなさい。

しかし、これを慌てて読み間違えてはならない。

神の強さがあなたの内にあるというのなら、あなたが自分の弱さを知覚しているものは、幻想にすぎない。

そして、その通りであることを証明する手段を、神はあなたに与えている。

すべてのものを神の教師に求めなさい。

そうすれば、すべてのものがあなたに与えられる。

未来において与えられるのではなく、ただちに、今すぐにである。

神は待つことはしない。

待つということは時間を示唆するが、神は時間を超越しているからである。

あなたの愚かな形象の数々、自分の脆弱さの感覚や危害に対する恐れ、危険の夢や選択された「不正」などは、忘れてしまいなさい。

神はご自身の子だけを知っており、子は今も、創造されたままに存在する。

私は自信をもって、あなたを神の手に委ねる。

そして、そうであるがゆえに、私はあなたについて感謝する。

 

そして今、あなたの為すことすべてにおいて、あなたに祝福があらんことを。

世界を救うために、神はあなたからの助けを頼りにしている。

神の教師よ、神はあなたに感謝を差し出す。

そしてあなたが神から選んでくる恩寵の中で、全世界は静けさに包まれる。

あなたは神が愛する子であり、あなたに定められているのは、神の声を世界中で聞かれるものにし、時間にまつわるあらゆるものごとを閉じ、目に見える光景の一切を終わらせ、移り変わるものすべてを取り消すための手段となることである。

目にも見えず耳にも聞こえないが確かに存在している世界が、あなたを通して招き入れられる。

あなたは神聖なるものであり、あなたの光の中で、世界はあなたの聖性を映し出す。

あなたは孤独ではなく、友なき者でもないからである。

私はあなたについて感謝し、神のためのあなたの努力につながる。

その努力は私のためのものであり、私と共に神に向かって歩むすべての者たちのためのものであることを、私は知っている。

アーメン。