そうだった。
わたしは「ただの人」だ。
それを認めるのがいやだった。
もっと言えば「ただのおばちゃん」だ。
おばちゃん、という響きに抵抗があるけど、でも、「何者でもない」ことに、めちゃくちゃホッとする。
そうだそうだ。
「ただのおばちゃん」を認めると、「神の子」もすんなりと受け入れられる。
ほんのわずかな抵抗だったけど、抵抗にも序列はない。
抵抗に大きいも小さいもない。
抵抗は抵抗だった。
もう、この世界でのポジションに一切こだわらなくていい。
気楽なおばちゃんのまんま、「気づきのわかち合い」三昧でいよう。
ホッとした。
何も取り繕わなくていい。
素直にそのまんまでいよう。
昨日の「日本刀」のおかげで、バッサリと自我を切れたのだと・・・。
二十九.その他のこと
このマニュアルは、教師と生徒が尋ねるかもしれない質問のすべてに答えようとするものではない。
実は、「テキスト」と「ワークブック」の中の主要な概念のいくつかの簡潔な要約という形で、比較的明解なものといくつか取り上げているだけである。
「テキスト」と「ワークブック」のどちらかの代わりとなるものではなく、たんなる補足にすぎない。
「教師のためのマニュアル」と呼ばれてはいるが、教師と生徒を隔てるのは時間のみであり、両者の違いはその定義から言っても一時的なものだということを、覚えておかねばならない。
場合によっては、生徒にとって、この「マニュアル」を最初に読むことが役に立つかもしれない。
あるいは、「ワークブック」から始めたほうがよい者たちもいるだろう。
さらに他の者たちは、「テキスト」で、もっと抽象的なレベルから始める必要があるかもしれない。
どれがどれに当てはまるのか。
ただ祈るだけのほうが益となる者は誰か。
多くを学ぶ準備がまだできていないので、微笑んでもらうだけでよい者は誰か。
誰も、こうした質問にひとりで答えようとすべきではない。
まさか、このことに気づかずにここまできたという神の教師は、ひとちもいないことだろう。
このカリキュラムは個々人に即したものとなっており、そのすべての側面が聖霊の特別な配慮と指導のもとにある。
尋ねなさい。
そうすれば、聖霊は答えるだろう。
その責任は聖霊にあり、聖霊だけがそうした責任を担うに適している。
そうすることが、聖霊の機能である。
質問を聖霊に委ねることが、あなたの機能である。
あなたは自分ではほとんど理解していない決断について、責任を取りたいと思うのだろうか。
あなたには、間違いを犯すことのあり得ない教師がついていることを喜びなさい。
彼の答えは常に正しい。
あなたは自分の答えについて、そのように言えるだろうか。
聖霊に決断を委ねる頻度を増やしていくことには、もう一つの別な利点があり、それは非常に重要な利点である。
あなたはこの側面について考えてみたことはないかもしれないが、その重要性は明らかである。
聖霊の指導に従うということは、自分自身を罪悪から赦免してもらうことである。
これが贖罪の真髄である。
これがこのカリキュラムの核心である。
自分自身の機能ではないものを横領していると思い込むことが、恐れの基盤である。
あなたの見ている世界全体に、自分がそれを行ったという幻想が反映されており、それが恐れを避けられないものとしている。
したがって、その機能をその持ち主に返すことが、恐れから逃れる道である。
そしてこれが、愛の記憶をあなたに戻すことになる。
それならば、聖霊の導きに従う必要があるのは単に自分が力不足だからだと、考えてはならない。
それは、あなたにとって地獄から抜け出す道なのである。
ここにもまた、このコースの中でたびたび言及された逆説がある。
「私は自分だけでは何一つできない」と言うことが、すべての力を手に入れることである。
だが、これは逆説のように見えるだけである。
神が創造したままのあなたは、すべての力を所有している。
あなたが自分自身を表すものとして作り出した形象には何の力もない。
聖霊はあなたについての真理を知っている。
あなたが作り出した形象はそれを知らない。
ところが、この形象は、明らかに完全に無知であるにもかかわらず、自分はすべてのことを知っていると思い込んでいる。
その理由は、あなたがそうした信念をそれに与えたからである。
これが、あなたが教えていることであり、その形象を維持するために作り出されたこの世界が教えていることでもある。
しかし真理を知っている教師は、真理を忘れてはいない。
彼が決断することにはまったく攻撃性がないので、すべての者たちに恩恵をもたらす。
したがって、罪悪感を喚起することはできない。
自分が所有していない力を装う者は、自分自身を欺いている。
だが、神から授かった力を受け入れるということは、自分の創造主を認めて、創造主からの贈り物を受け入れることに他ならない。
そしてその贈り物に制限はない。
自分のために決断してくれるよう聖霊に求めるというのは、単に、自分が真に受け継いでいる賜物を受け入れることにすぎない。
これは、聖霊に相談せずには何も語れないという意味だろうか。
いや、まったくそうではない!
そうだとしたら実用的ではなくなる。
そして、このコースが最も気にかけているのは実用性である。
もしあなたが、自分にできる時や場所で助けを求めるということを習慣として身につけたなら、必要なときには自分に叡智が与えられると確信してよい。
毎朝このために準備をし、一日中、神を思い出せるときには思い出し、聖霊に助けを求めることが可能なときはそれを行い、夜には、その導きについて聖霊に感謝しなさい。
そうすれば、あなたの確信はまさにしっかりと根拠に裏打ちされたものとなる。
決して忘れてならないのは、聖霊はあなたの言葉に頼ってはいないということである。
聖霊はあなたの心からの願いを理解し、それに答える。
これは、攻撃があなたにとって魅力的であり続けている間は、聖霊も悪をもって応じるという意味になるのだろうか。
そうではない!
なぜなら、神は聖霊に、あなたの心の祈りを聖霊の言語に翻訳する力を与えたからである。
聖霊は、攻撃とは助けを求める呼びかけだということを理解している。
そしてそれに即して、助けをもって応答する。
もし神があなたの言葉でご自身の言葉が置き換えられることを容認するとしたら、神は残酷だということになる。
子を愛する父は、その子が自分自身を傷つけたり、自分で自分の身を滅ぼす選択をするようなことはさせない。
子供は自分が傷つくようなことを求めるかもしれないが、その子の父はそれでもわが子を守ろうとする。
あなたの父はそれよりもはるかに深くわが子を愛しているのではないだろうか。
あなたは神を完成するものであり、神の愛そのものであるということを、思い出しなさい。
そして、あなたの弱さが神の強さであることを思い出しなさい。
しかし、これを慌てて読み間違えてはならない。
神の強さがあなたの内にあるというのなら、あなたが自分の弱さを知覚しているものは、幻想にすぎない。
そして、その通りであることを証明する手段を、神はあなたに与えている。
すべてのものを神の教師に求めなさい。
そうすれば、すべてのものがあなたに与えられる。
未来において与えられるのではなく、ただちに、今すぐにである。
神は待つことはしない。
待つということは時間を示唆するが、神は時間を超越しているからである。
あなたの愚かな形象の数々、自分の脆弱さの感覚や危害に対する恐れ、危険の夢や選択された「不正」などは、忘れてしまいなさい。
神はご自身の子だけを知っており、子は今も、創造されたままに存在する。
私は自信をもって、あなたを神の手に委ねる。
そして、そうであるがゆえに、私はあなたについて感謝する。
そして今、あなたの為すことすべてにおいて、あなたに祝福があらんことを。
世界を救うために、神はあなたからの助けを頼りにしている。
神の教師よ、神はあなたに感謝を差し出す。
そしてあなたが神から選んでくる恩寵の中で、全世界は静けさに包まれる。
あなたは神が愛する子であり、あなたに定められているのは、神の声を世界中で聞かれるものにし、時間にまつわるあらゆるものごとを閉じ、目に見える光景の一切を終わらせ、移り変わるものすべてを取り消すための手段となることである。
目にも見えず耳にも聞こえないが確かに存在している世界が、あなたを通して招き入れられる。
あなたは神聖なるものであり、あなたの光の中で、世界はあなたの聖性を映し出す。
あなたは孤独ではなく、友なき者でもないからである。
私はあなたについて感謝し、神のためのあなたの努力につながる。
その努力は私のためのものであり、私と共に神に向かって歩むすべての者たちのためのものであることを、私は知っている。
アーメン。