「言葉」の必要がない世界がわたしたちの本当の居場所。
これは「体験」によってのみ「体験」される。
質問がなくなったとき、この一つという真実が体験される。
看過(スルー)の理由を探さなくても、看過(スルー)しかできないことに気づく。
でも、今、「言葉」の世界に居る間の機能として、「言葉」にてわかち合われ、それにより看過(スルー)は完了していくのだなぁ、と。
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マニュアル編 用語の解説 序文
これは哲学的思弁に関するコースではなく、厳密な語義にこだわるものでもない。
贖罪のみに、すなわち、知覚の訂正のみに関するものである。
贖罪の手段は赦しである。
「個人の意識」の構造といったものは、もとより、対象外である。
なぜなら、それは「原初の誤り」すなわち「原罪」表象する概念だからである。
誤りを看過することに真に成功をしたいのなら、誤りそのものを研究しても訂正にはつながらない。
そしてこのコースが照準を合わせているのは、この看過のプロセスのみである。
すべての用語には論争の余地があり、論争を求めるものたちは論争を見出すだろう。
だが、同様に、解説を求める者たちは、解説を見出す。
ただしそのためには、彼らは、論争とは真理に対する防衛が遅延戦略の形をとったものだと認識して、論争を看過しょうとする意欲をもたねばならない。
神学的考察といったものには必然的に論争の余地がある。
というのも、そうしたものは信念に左右されるので、受け入れることも拒否することもできるからである。
ここにおいてのみ一貫性が可能となる。
なぜなら、ここにおいてのみ、不確実性が終わるから普遍的な神学は不可能だが、普遍的な体験は可能であるばかりか、必要である。
このコースは、その体験へと向かうものである。である。
このコースは、それが必要とされている場である自我の枠内にとどまる。
すべての誤りを超えたところにあるものには関与しない。
なぜなら、これはそこに向かうべき進路を定めるためのみに計画されているコースだからである。
したがって、このコースは言葉を用いる。
そして言葉は象徴的なものであり、象徴を超えたところにあるものを表現することはできない。
疑うは自我のみであるから、質問をするのも自我のみである。
このコースはただ、質問が発せられたなら、別の答えを与えるだけである。
しかしその答えは創意工夫や巧妙さに頼ろうとはしない。
そうしたものは自我の属性である。
このコースは単純である。
一つの機能と、一つのゴールがあるだけである。
この点においてのみ、このコースは完全に首尾一貫しているが、その理由は、この点のみが一貫したものとなり得るからである。
自我は、このコースが与えない多くの答えを要求するだろう。
質問の形をしているだけで答えが不可能なものを、このコースは質問として認識しない。
自我は、「どのようにして、不可能なことが起こったか」「不可能なことが、何に対して起こったのか」と尋ね、しかも、数多くの形で尋ねるかもしれない。
だが、それには答えがない。
ただ体験があるのみである。
これだけを求めなさい。
神学によって、あなたの歩みを遅らせてはならない。
あなたにもすぐわかる通り、このコースにおいては、構造に関する話題を重点的に取り上げている部分は短く、最初の方に見られるのみである。
それ以降はすぐに、中心的な教えに移っていく。
しかしあなたが解説を求めたので、使用されている用語のいくつかについて、以下に述べておく。