赦し、という性質は、この世界の幻想の中で、もっとも「正気(天国)」に近いもの。
赦し、という知覚のみが、幻想の世界に機能できる、唯一のもの。
赦し、とは「ないものをない」と認めること。
壊れるものは、最初から「ない」。
そこに期待や一縷の望みをかけ、叶えられないことに怒り、落胆するという「罪」の連鎖から離れる機能が「赦し」。
形であるものはすべて「罪」の象徴。
身体も、言葉も、関係の形も、とにかく、掴めるものはすべて、最初から「ない」。
それを握りしめず、放ち、自由にしてあげることが「赦し」。
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放つには、「見て、感じて、感じ切って、それが看過されるままにする」。
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用語の解説 3.赦しーキリストの顔
赦しは、神のためのものであり、神へと向かうものであるが、神に属するものではない。
神が創造したもので赦しが必要なものなど考えられない。
それならば、赦しは幻想である。
しかし、その目的は聖霊の目的であり、それゆえに、赦しには一つの相違がある。
他のすべての幻想とは異なり、それは誤りへと向かうのではなく、誤りから遠ざかる方向へと導く。
赦しは一種の幸せな作り話と呼べるかもしれない。
それは、知らざる者たちが自分の知覚と真理との間の隔たりに橋を架けることのできる道である。
彼らは知覚から知識へと直行することはできない。
そうすることが自分の意志だとは思っていないからである。
これにより、神が真にありのままの神ではなく敵であるかに見えている。
そして、この狂った知覚のみによって、彼らは、ただ立ち上がって平安の内に神のもとに戻るということを、厭うようになっている。
したがって彼らは、自分ではどうしようもないがゆえに助けという幻想を必要としており、葛藤の中に居るがゆえに平安の想念を必要としている。
神は、わが子が求めるより先に何が彼に必要かを知っている。
神は形態については少しも気にかけない。
しかし、神は内容を与えたので、それが理解されることが神の意志である。
そして、それで充分である。
形態は必要に応じて変わるが、内容は不変であり、その創造主と同じように永遠である。
神についての記憶が戻ってこられるようになるには、その前にまず、キリストの顔が見られなければならない。
その理由は明白である。
キリストの顔を見ることには知覚が伴う。
誰も知識を見ることはできない。
しかしキリストの顔は、赦しの大いなる象徴である。
それは救済である。
実相世界の象徴である。
それを見る者は誰でも、もはや世界を見なくなる。
彼は天国の門の外では最も天国に近いところにいる。
この門からは、あと一歩で中に入ることができる。これが最後の一歩である。
そしてこれを、私たちは神に委ねる。
赦しも象徴である。
しかし、神の意志のみを象徴するものであるから、それは分割できない。
それゆえに、赦しが映し出している一体性が、神の意志となる。
それは部分的にはまだこの世界にありながらも、天国への架け橋となる唯一のものである。
神の意志が、存在のすべてである。
私たちはただ、無から有へ、地獄から天国へと進むことができるだけである。
これは旅だろうか。
いや、真理においてはそうではない。
真理はどこにも行かないからである。
しかし幻想は、場所によっても時間によっても、移り変わる。
最後の一歩もまた一つの移行にすぎない。
それは知覚であるから、その一部は実在しない。
しかし、この部分はいずれ消え去る。
あとに残るのは、常しえの平安と神の意志である。
もはやいかなる願望も存在しない。
願望は変化するものだからである。
かって願われたものでさえ、歓迎されなくなることがあり得る。
それは当然である。
自我は安らかでいることはできないからである。
しかし意志は神の贈り物であるから、恒常である。
そして神が与えるものは常に、ご自身と同質のものである。
これがキリストの神の目的である。
それはわが子を救うための神からの贈り物である。
ただこれだけを見なさい。
そうすれば、あなたは赦されている。
そのほんの一瞬の間、あなたがそこに自分自身についての真理が映し出されているのを見るとき、世界は何と麗しいものになることだろう。
今やあなたに罪はなく、あなたは自分の無罪性を眺める。
今やあなたは神聖であり、世界をそのように知覚する。
そして今、心は自らの創造主のもとへ帰る。
それが、父と子の合一であり、すべてのつながり合いの背後にありながらもそれらすべてを超越した、あらゆる一体性の中の一体性である。
神は見られることなく、ただ理解する。
神の子は攻撃されることなく、認識される。