2020.2.28
レッスン28
何にもまして、私はものごとをこれまでとは違った見方で見たい。
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それをあなたが将来も守り続けるかどうかは、ここでは問題にしない。
少なくとも今その誓約をしてもいいという意欲があるなら、
あなたはそれを守る道を歩み始めたのである。
そして、私たちの歩みはまだ始まったばかりである。
(1:3~5)
あなたはおそらく、
「何にもまして、私はこのテーブルをこれまでとは違った見方でみたい」ということが
なぜ重要なのかと、首をかしげるかもしれない。
それ自体は、少しも重要なことではない。
しかし、それ自体で存在しているものなどあるだろうか。
そして、「それ自体」とは何を意味するのだろうか。
あなたはたくさんの分離したものごとを自分の周囲に見ているが、
そのことが真に意味しているのは、
あなたはまったく真の見方で見ていないということである。
あなたは真にみているか、まったく見ていないかのどちらかでしかない。
もし一つのものごとをこれまでとは違った見方で見たなら、
あなたはすべてのものごとをこれまでとは違った見方で見るようになるだろう。
あなたがどれか一つの中に見る光は、
それらすべての中にあなたが見る光と同じである。
(2:1~8)
「何にもまして、私はこのテーブルをこれまでとは違った見方で見たい」と言うとき、
あなたはそのテーブルについての自分の先入観を撤回して、
それが何であり、何のためのものか、
ということに対し心を開くという誓約をしている。
あなたはそれを過去から定義しているのではない。
それが何であるかをそれに対して告げるのではなく、
それが何であるのかを尋ねている。
あなたはその意味を、テーブルについての自分のわずかな経験に縛りつけず、
その目的を自分の小さな個人的な考えに限定することもない。
(3:1~4)
あなたは自分がすでに定義したものについて質問することはしない。
そしてこれらの演習の目的は、質問をして、答えを受け取ることにある。
「何にもまして、私はこのテーブルをこれまでとは違った見方で見たい」と言うとき、
あなたは真の見方で見ることに貢献すると誓っているのである。
それは対象を限定した誓約ではない。
それはテーブルに対してだけでなく、
ほかの何に対してでもあてはまり、
テーブルに対するとき以上でも以下でもなく同じようにあてはまる誓約である。
(4:1~5)
実際、もしテーブルに関する自分の観念のすべてを取り払い、
完全に偏見なくそれを見るなら、
あなたはそのテーブルからだけでも心眼(ビジョン)を得ることができる。
それはあなたに何かを見せてくれる。美しく、穢れなく、永遠の価値のある何か、
幸せと希望に満ちた何かである。
それについてのあなたの一切の考えの下に隠されているものが、
その真も目的であり、それが全宇宙と共有する目的である。
(5:1~3)
したがって、今日の概念を適用する対象としてテーブルを用いながら、
あなたは実際には宇宙の目的を見たいと求めているのである。
練習時に題材として用いるもののどれにでも、
あなたは同じ要請としていることになる。
そしてあなたは、それぞれのものに対し、
自分の価値判断を押しつけるかわりに、
その目的が自分に開示されるようにする、と誓約しているのである。
(6:1~3)
対象を無作為に選ぶだけでなく、
真の見方で見るという目的に役立つものとして同等に価値があることを認めて、
どれに対しても同じく真摯に、今日の概念を適用することが必要である。
(7:2)
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・何にもまして、私はこのパソコンをこれまでとは違った見方で見たい。
・何にもまして、私は夫をこれまでとは違った見方で見たい。
・何にもまして、私は身体をこれまでとは違った見方で見たい。
・何にもまして、私は食べ物をこれまでとは違った見方で見たい。
・何にもまして、私はTVをこれまでとは違った見方で見たい。
・何にもまして、私はこの問題をこれまでとは違った見方で見たい。
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とっさに「わかってる!」と自我の反応をしてしまいますが、
それでもこのレッスンを思い出して、
もう一度、
「尋ねる」だけの姿勢に留まりたいです。
応えてくれます。
あたたかいです。