身体感覚に見合った映像を作り出してきたということが体験されていってます。
映像に夢中になっていたけど、映像になんの力もなくて、
すべての映像が、ただ消えていくだけのものでしかなかったのですね、本当に。
どんなに重要そうなものでも、
どんなに悲惨でグロくても、
どんなに感動的でも、
映像を写す側がリアルな私たちなのです。
このことは何度も氣づきとして感じていましたし、思考では「そうだ」と思っていましたが、なかなか体験としては深まっていませんでした。
まだ、「そう思えない」「特別」な映像を握りしめていたんです。
重要な記憶だと思い込んで、なかなか手放せない思いがあったのでした。
だけど、ようやく、もう全部、全部の映像を純粋な空間で包み込めます!
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ワークブック レッスン73
私は光が現れることを意志する。
無為の願望と不満の数々が、あなたが見ている世界の映像化に協力した仲間たちであり、共同制作者たちである。
世界を生起させたのは、自我の願望である。
この世界を維持するためには不満が不可欠であり、その不満を必要としている自我は、世界の中に多くの人物を住まわせる。
あなたを攻撃しているように見え、「正義の」裁きを受けるべきと見える人物たちである。彼らは、自我が不満を商うために雇い入れる仲買人となる。
そうしてあなたの自覚と兄弟の実相の間に立ちはだかる。
彼らをみているあなたは、自分の兄弟を知らず、自分の自己のことも知らない。
(2:1~5)
罪悪感が売り買いされ、そのたびに不満が膨れ上がるという、この奇妙な交換取引において、あなたの意志はあなたから失われている。(3:1)
あなたの世界の映像は、内側にあるものをそのまま映し出すことしかできない。(5:1)
ほかの何にも増して、あなたは、自分は本当は誰なのかを思い出す自由を望んでいる。
今日、あなたの意志を前にして力なくたたずむのは自我のほうである。
あなたの意志は自由であり、何ものもそれに打ち勝つことはできない。(7:5~7)
私は光が現れることを意志する。神の意志と私の意志を反映する光を私が見ることができますように。(10:2)
私は光が現れることを意志する。闇は私の意志ではない。(11:3)