レッスン155の文章は心地よいし好きな文章。
ただ、最初は自分がそうなれるとは到底思えなかった。
一歩退くということは、自我に先導させることをやめること。
この退くということが自我にとっては「犠牲」を伴うように感じていたけど、
この世界自体が幻想なのだから、退く以外選択肢はなかったのだ。
幻想を幻想と優しく見つめる以外ない。
本当はとても簡単なこと。
幻想を嘆く必要も、裁く必要も、求める必要もない。
そして、その視線を純粋な空間に向ける。
神に向ける。
なぜなら、そこに喜びがあるから。
世界への関わり方が逆転する。
あなたの外見が変わることはないが、あなたはもっとたびたび微笑むようになる。
あなたの額は穏やかで、瞳は静かである。
そして、この世界であなたと同じように歩む者たちは、自分と同じ者たちを認識する。
(Pl 155 1:2.3.4)
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ワークブック
レッスン173
(155) 私は一歩退いて、神に導いてもらう。
(156) 私は完璧な聖性の中を神とともに歩む。
神は愛であり、だから私も愛である。
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レッスン155
存在するように見えるが実は存在していないこの世界の中で生きるための、一つの生き方がある。
あなたの外見が変わることはないが、あなたはもっとたびたび微笑むようになる。
あなたの額は穏やかで、瞳は静かである。
そして、この世界であなたと同じように歩む者たちは、自分と同じ者たちを認識する。
(1:1~4)
世界は幻想である。
そこにくることを選ぶ者たちは、彼ら自身が幻想となり、自分の実相を回避できる場所を求めている。
しかし、ここにも自分の実相があると発見したときには、彼らは一歩退き、その実相に導いてもらおうとする。
実際、それ以外に、彼らにどんな選択肢があるだろう。
幻想に真理を先導させるのは狂気である。
しかし、幻想を真理の後ろに退け、あるがままの真理を前面に立たせることは、単に正気であるにすぎない。
(2:1~6)
これが、今日、私たちが行う単純な選択である。
(3:1)