「ひとつ」だったと受け入れ安らぐ。
小さなころから、つながっていた感覚が徐々に分断されはじめ、「ひとつ」を忘れたことにしていた。
そのかわりに「特別」でいる方が心地よいと思い込んでいた。
いつのまにか自分が自分を作らないといけないと思い込み、そうでないと生き残れないという世界の夢を見ていた。
その夢を見ている間は「恐怖」と「防衛」で、思考と感情をフル回転させていた。
まさか、勘違いだったなんて・・・。
そして、本当に勘違いだった。
もうすでに父の子として創られていたそのままを、なんの躊躇いもなく受け入れるだけ。
わずかな力みも必要なかった。
ゆるされたままだった。
くつろぎの懐へと。
・・・
ワークブック
レッスン276
私が語るようにと、神の言葉が私に与えられる。
・・・・・
神の言葉とは何だろうか。
それは、「私の子は私自身と同じように清らかで神聖である」という言葉である。
神の子はそのようにして創造され、神はそのようにして愛するわが子の父となった。
神の子はこの言葉の中で生まれたのだから、その言葉は神の子が父と一緒に創造したものではない。
神の父性を受け入れよう。
そうすれば、すべてが私たちに与えられる。
自分が神の愛の中で創造されたことを否定するなら、自分の真の自己を否定することになる。
自分が誰なのか、何のために私たちはきたのかについて、確信がもてなくなる。
だが、私たちを創造したときにご自身の言葉を授けた神を認めさえすれば、私たちは神を想起し、自己を思い出すことができる。
父よ、あなたの言葉は私のものです。
私がすべての兄弟たちに語りたいのは、このことです。
私があなたに愛され祝福され救われているように、彼らを私自身のものとして大切にするようにと、私に彼らを授けてくださったのですから。
(1・2)
・・・・・
テキスト 28章 Ⅲ 3:1-2
心たちはつながっており、分離することができないからこそ、
奇跡は何もしない。
しかし、夢の中ではこれが逆になっており、別々になった心たちは肉体と見なされ、それらは分離していてつながり合うことができない。
苦痛の原因は肉体ではなく分離であり、肉体は分離の結果に他ならない。
だが、分離とは何もない空間にすぎない。
何も囲んではおらず、何もしておらず、通り過ぎる舟がたてるさざ波の合間の何もない間隙のように、実体のないものである。
そしてそれは、水がどっと押し寄せてその隔たりを閉じるように、あるいはまた、波と波がつながってすぐさま隔たりを被ってしまうのと同じように、たちまちのうちになくなってしまうものである。