「私なんかが幸せでいていいんですか」という思いがあります。
だから、幸せじゃない理由の方ばかり探します。
「幸せじゃないこと」はどこにも見つけられないのに、
「私は誰からも大切だと思われていない」とか、
「私は用なしだ」とか、
「私は価値のない人間だ」とか、
「私は嫌われている」とか、
「私は必要とされていない」とか・・・、
「分離」前提の、これらの思考を作り上げ、その中に自ら入り、その世界を生きようとします。
これらの思考を前提にして、いろいろと妄想を広げ、かってに悲観しています。
または、勝手に怒ってます。
この手の悲観や怒りには終わりがなく、どこまでもそんな世界の中でひねくれています。
そうして、それはより強固になり、その自我の世界を当然のようにくりひろげているのです。
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「何もわからない」「わかる必要はない」ということを認めることと、
思考に便乗する自体が、「救済」、そして「愛」の方に「意欲」を向けていない表れだということ。
どんなにストーリーが生産され続けようと、「空(くう)」は相変わらずあっけらかんと「空(くう)」のまんま。
「愛」のまんま。
ここに居たいです。
【私が自分で作り出した情景に対して神から与えられている訂正を介さずに知覚するものは、見るも恐ろしく苦痛に満ちている。
しかしもはや、自分の作り出した夢が実在するという信念により自分の心が欺かれることを、一瞬でも容認するつもりはない。(1:4.5)】
フェイクを容認しないでいたい。
それこそ、なんの努力もいらない。
自我の心を続行する方が力が必要。
単純のままいよう。
単純でいよう。
単純でいることが難しくなっている。
間髪入れず防衛している。
だけど、「単純」の心地よさは知ってるから、そこへただ落ちよう。
わからなさに落ち込もう。
「わからない」まま、単純でいよう。
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ワークブック
レッスン290
私の現在の幸福が、私の見るすべてである。
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存在していないものに私が目を向けない限り、現在の幸福が、私に見えるすべてである。
開き始めた目が、遂に見るようになる。
そして今日こそ、キリストの心眼が私にもたらされるようにしたい。
私が自分で作り出した情景に対して神から与えられている訂正を介さずに知覚するものは、見るも恐ろしく苦痛に満ちている。
しかしもはや、自分の作り出した夢が実在するという信念により自分の心が欺かれることを、一瞬でも容認するつもりはない。
今日、私は現在の幸福を追求し、自分が求めているもの以外には何も見ない。
この決心とともに、あなたのみもとに参ります。
そして今日、私があなたの意志を行おうとする間、あなたの強さで私を支えてください。
父よ、私の声があなたに届かぬはずがありません。
あなたは私が求めるものを、すでに与えてくださいました。
ですから今日、私は自分の幸福を見ることを確信しています。
(全文)
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過去(2020・12.15)の文章↓
自分の心に「罪」と「罪」ゆえの不足や防衛や攻撃があり、それが世界へと映し出され、
自分と世界を嘆く。
長い間、長い間、そんな時空を生きていたと思い込んできた。
自分を憎悪し、人を憎悪し、この世界を憎悪してきた。
全部、自分は罪深い存在だという信念の顕われなのだ。
兄弟姉妹は全部私。
外に見た罪は私の作ったストーリー。
私の憎悪を、世界に押し付けていた。
どうぞこの自我の目を通り越し、真のビジョンへと一心に向かうことができますように。
正気に戻れますように。そうしたいです。そうします。
「救済は共同事業である。」
これまでの過去の一切、これまで傷つき傷つけた関係性、自分の肉体への裁きの念、
ありとあらゆる解釈から離れよう。
どうぞ、卑小な罪人だと自分を査定してきたこの凄まじい念を、ただ静かに置くことが出来ますように。