誰かの中に見る「罪」のようなものは、わたしの「罪」のようなもの。
そして、それはなんでもないもの。
そうして、見抜かれ、消えていく。
何も起こっていなかったことにうろたえるけど、ちゃんとうろたえたら、その後は安堵と至福につつまれる。
気楽さの中の祝福になる。
・・・
【第二章 精神療法のプロセス】
Ⅶ.患者とセラピストの理想的な関係
では、誰がセラピストであり、誰が患者なのだろう。
最終的には、誰もがその両方である。
癒しを必要としている者は、癒さなければならない。
医者よ、汝自身を癒しなさい。
他に癒すべき誰がいるというのだろう。
そして、他の誰が、癒されることを必要としているだろう。
セラピストを訪れる患者の一人ひとりが、セラピストに自分自身を癒す機会を差し出している。
それゆえに、患者はセラピストのセラピストである。
そして、セラピストも、自分のもとへやってくる患者の一人ひとりから、癒すことを学ばねばならない。
そのようにして、セラピストは患者の患者となる。
神は分離のことを知らない。
神が知っているのは、ご自身にはひとりの子が居るということだけである。
神の知識は、患者とセラピストの理想的な関係に反映される。
神は呼びかける者のもとにやってくる。
そして呼びかけた者は神の中に神ご自身を認識する。
教師でありセラピストである者よ、あなたが誰のために祈るのか、誰が癒しを必要としているのかを、注意深く考えてみなさい。
治療とは祈りであり、癒しはその目標であると同時にその結果でもある。
祈りとは、キリストが中に入ってこられるような関係の中で心と心がつながり合うこと以外の何だろう。
これがキリストの家であり、精神療法はその家の中へと彼を招き入れる。
いつでも選べる別の症状があるというときに、症状の治療など何になるだろう。
しかし、ひとたびキリストが中に入ってくれば、彼にとどまってもらう以外に選択の余地はなくなる。
これ以上は何も必要ない。
それがすべてだからである。
癒しはここにある。
これらが、患者とセラピストの理想的な関係の「症状」であり、患者が助けを求めてやってきたときの症状と入れ替わる。
この関係の中で生じるプロセスは、実際のところ、セラピストが胸の中で患者に、彼の罪はすべて、セラピスト自身の罪とともに赦されたと告げるプロセスである。
癒しと赦しの間に、どんな相違があり得るだろう。
そして自らの無罪性を知っているキリストだけが、赦すのである。
キリストの心眼が知覚を癒し、病気は消滅する。
また、ひとたびその原因が取り去られたなら、それが再び戻ってくることはない。
しかし、これには、非常に進歩したセラピストの助けが必要である。
そうしたセラピストは神聖な関係の中で患者とつながることができ、その関係の中では、すべての分離の感覚がついに克服される。
このためには、一つのことが必要であり、しかもその一つだけが必要である。
それは、セラピストが決して自分自身を神と混同しないということである。
すべての「癒されていないヒーラー」は、何らかの形でこの根本的な混乱をきたしている。
なぜなら、彼らは自分自身を、神に創造されたものではなく、自分により創造されたものと見なさずにはいられないからである。
この混同が仮に自覚されることがあったとしても、それはきわめて稀である。
そうでなかったら、癒されていないヒーラーは、ただちに、自分の人生を真の癒しの機能のために捧げる神の教師となることだろう。
その地点に達する以前の彼は、自分には治療のプロセスが任されていると考え、それゆえに自分はその結果に責任があると思っていた。
それゆえに、彼の患者の間違いは、彼自身の失敗となり、罪悪感が暗く強力な覆いとなって、キリストの聖性であるはずのものを隠していた。
決断をするにあたって自分の判断を用いる者たちを通して聖霊に語ってもらう者たちにおいては、罪悪感は不可能である。
罪悪感の消滅が、治療の真の目標であり、赦しの当然の目標でもある。
このことの中に、両者がひとつのものであることが、はっきりと見て取れる。
しかし、兄弟のための導き手という役割の中で兄弟について責任を感じていながら、罪悪感の終わりを経験できる者などいるだろうか。
こうした機能は、ここに居る者は誰ももつことができないような見識を前提としている。
すなわち、過去、現在、未来についての確信、および、それらの中で生じるかもしれないすべての結果に対する確信である。
この全知の観点からのみ、このような役割は可能となる。
だが、いかなる知覚も全知ではなく、また、たったひとりで宇宙に対抗している微小な自己は、狂気の中でない限り、自分がそのような叡智をもっているなどと思い込むことはできない。
多くのセラピストが狂っているということは、言うまでもない。
癒されていないヒーラーは、誰も完全に正気ということはあり得ない。
しかし、神があなたに与えた機能を受け入れないことは、神が与えなかった機能をでっちあげることと同じく、狂っている。
進歩したセラピストには、自分の中にある力を疑うということがまったくできない。
また、彼がその源を疑うこともない。
彼は自分がそのようなセラピストであるがゆえに天と地におけるすべての力が自分に属しているということを理解している。
そして彼は、彼の創造主のゆえに、そうした存在である。
彼の中には創造主の愛があり、創造主が失敗することはあり得ない。
これが何を意味しているかを考えてみなさい。
彼は神ご自身という贈り物をもっており、それを与えることができるということである。
彼の患者たちは、彼の神聖さに頼ってそれを自分のものにしようとしている神の聖人たちである。
そして、彼がその神聖さを彼らに与えるとき、彼らは、キリストの輝く顔が自分たちを見つけ返しているのを見るのである。
狂った者たちは自分が神だと思っており、神の子に対して弱さを差し出すことを怖れない。
しかし彼らは、このことのゆえに自分が神の子の中に見るものを、本当に恐れているのである。
癒されていないヒーラーは、自分の患者たちを怖れずにはいられない。
そして自分の中に見ている裏切りが患者たちの中にあるに違いないと疑ってかかる。
彼は癒そうとしているので、ときには、癒すかもしれない。
しかし彼は、ほんのわずかの間、ある程度までしか成果をあげられないだろう。
彼は、呼びかけている者の中にキリストを見ない。
異邦人のように見えている者に対し、癒されていないヒーラーがどんな答えを与えることができるというのだろう。
彼はその異邦人を、真理にとっては異質で叡智に乏しい者、また、神をもたないので神を与えてもらわなければならない者として見ているのである。
その異邦人の中に、あなたの神を見なさい。
なぜなら、あなたが見るものが、あなたにとっての答えとなるからである。
二人の兄弟がつながり合うということが、真に何を意味しているか、考えてみなさい。
そしてそれから、世界を忘れ、世界の小さな勝利や死の夢をすべて忘れてしまいなさい。
同じ者たちはひとつのものである。
だから今では、罪悪の世界について何も思い出すことはできない。
部屋は神殿となり、街路は、病んだ夢のすべてを軽くなぞりながら通り過ぎていく星々の流れとなる。
完全無欠であるものは癒しを必要としないのだから、癒しは完了している。
そして罪のない所では、赦されなければならない何が残っているというのだろう。
セラピストよ、感謝しなさい。
あなたは、もし自分の正しい役割を理解しさえすれば、こうしたものごとをこのように見ることができるのである。
しかし、もしそれを理解し損なうなら、あなたは神があなたを創造したということを否定したのであり、それゆえに、自分が神の子であると知ることはないだろう。
そうなったとき、誰があなたの兄弟だろう。
どんな聖人が、あなたを一緒に家に連れ帰ることができるだろう。
あなたは道に迷ってしまったのである。
そのときあなたは、自分自身が与えることを拒否してきた答えを、彼の中に見ることなど期待できるだろうか。
癒して、癒されなさい。
この他に、平安へと導くことのできる道の選択肢はない。
さあ、あなたの患者を招き入れなさい。
彼は神のもとからあなたのところに来たからである。
彼の聖性だけで、神についてのあなたの記憶を目覚めさせるに充分ではないだろうか。