真実は身体を超えている。
だから、身体、五感を超越している。
心において「親密」であるだけ。
心に「感謝」の通り道を促すだけ。
それがつながり。
それが働き。
喜び。
・・・
第三章 精神療法という職業
Ⅰ.患者の選択
あなたのもとへ送られてくる誰もが、あなたの患者である。
これは、あなたが患者を選ぶという意味ではなく、あなたが適切な治療の種類を選ぶという意味でもない。
しかし、間違ってあなたを訪れる者は一人もいないということは、確かに意味している。
神の計画に誤りはない。
しかし、訪れる者の一人ひとりに対して何を提供すべきかについてあなたが知っていると見なすことは、誤りである。
それを決めるのはあなたではない。
あなたには「自分は、訪れる者たちのために自分自身を犠牲にするようにと絶えず求められている」と思い込む傾向がある。
これはおよそ真実ではあり得ない。
自分自身に犠牲を要求するというのは、神に犠牲を要求することであるが、神は犠牲については何も知らない。
完全無欠なるのものに不完全であれと求めることなど、誰にできるだろう。
それでは、一人ひとりの兄弟が何を必要としているのかを決めるのは、誰だろう。
もちろん、あなたではない。
あなたはまだ、誰が求めているのかを認識してもいない。
もしあなたが耳を澄まして聞くならそれをあなたに告げる何かが、彼の中に存在している。
そして、それが答えである。
だから聞きなさい。
要求してはならない。
決めてもいけないし、犠牲にしてもいけない。
ただ聞きなさい。
あなたに聞こえることは真実である。
神がわが子をあなたのもとに送っておきながら、あなたが彼の必要を認識するかどうかを神ご自身が確信していないということがあるだろうか。
神があなたに何を語っているのかを考えなさい。
神はご自身を代弁して語るあなたの声を必要としているのである。
これ以上に神聖なことがあるだろうか。
あるいはまた、あなたにとって、これ以上に大いなる贈り物があるだろうか。
あなたは誰が神となるかを選びたいだろうか。
それとも、あなたの中に居る神からの声を聞きたいだろうか。
あなたが神の名において自分の患者の役に立つためには、彼が物理的にあなたの目の前に居る必要はない。
これを覚えておくのは難しいかもしれないが、神は、あなたへの贈り物を、あなたが実際に会う少数の者へと限定することはない。
あなたはそれ以外の者たちにも会うことができる。
会うということは肉眼へと限定せれてはいないからである。
ある者たちは、あなたが物理的に目の前に居ることを必要としない。
彼らは、送り出された瞬間にあなたを必要としており、それはあなたが彼らを必要としているのと同じか、それ以上の必要であるかもしれない。
あなたは彼らを、双方にとって最も助けになる何らかの形で認識するだろう。
どのようにして彼らがやってくるかは問題ではない。
彼らは、どんな形態であれ最も助けになる形態を纏って送られてくる。
たとえば、名前、考え、画像、アイデアであったり、あるいは、どこかに居る誰かに手を差し伸べているような感覚ということもあるかもしれない。
つながり合うということは、聖霊の手中にある。
それが達成されずに終わることはあり得ない。
神聖なセラピストは進歩した神の教師であり、彼は一つのことを決して忘れない。
すなわち、自分が救済のカリキュラムを作ったのではなく、その中における自分の役割を確立したのでもない、ということである。
彼は、自分の役割が全体にとって必要であると理解しており、それを通して、自分の役割が完了したときに自分は全体を認識するということも理解している。
それまでの間、彼は学ばねばならず、彼の患者たちこそが、彼のもとに送られてくる彼の学びの手段である。
彼らについて、また彼らに対し、感謝すること以外に、彼には何ができるというのだろう。
彼らは神を連れて、やってくるのである。
彼は、この贈り物を石塊と交換に、拒絶したいのだろうか。
あるいは、世界の救済者に扉を閉ざして、亡霊を中に入らせたいのだろうか。
彼に神の子を裏切らせてはならない。
誰が彼に呼びかけているのかは、彼の理解をはるかに超えている。
しかし、呼びかける者に応えることによってのみその呼びかけを聞くことができ、それが自分自身の呼びかけでもあると理解できるというときに、彼は自分が応えることができることを喜びたくはないだろうか。