「無私性」が自己!
祈りは、「無私性」、「共有」部分への賛美。
内なるキリストを認める。
この時空へ流れていく意識は、感情感覚を素直に感じることで忘れられていく。
すべてがあるのだから。
限定した小さくて脆弱な輪郭は消える。
永遠の賛美。
・・・
第一章 祈り
Ⅴ.階梯の終わり
祈りは、真の謙遜への道である。
ここでも、祈りはゆっくりと上昇し、力強さと愛と聖性を増してゆく。
祈りが神に向かって昇り始めるこの地上から、それがただ離れてゆくままにさせなさい。
そうすれば、真の謙虚がついに訪れて、自分がたったひとりで世界に立ち向かっていると考えていた心に、恩寵を与えるだろう。
謙遜は平安を運んでくる。
なぜなら、謙遜は、自分が宇宙を支配しなければならないとは主張せず、すべてのものごとを自分が望む通りに判断することもないからである。
すべての小さき神々を、謙遜は喜んで脇に寄せる。
しかも、憤りによってではなく、正直さと、それらの神々が役に立たないという認識において、そうするのである。
幻想と謙遜は、それぞれまったくかけ離れたゴールをもっているので、両者が共存することはできない。
また、両者が出会えるような住居を共有することもできない。
一方が訪れたところでは、他方は消え失せる。
真に謙虚な者には、神以外のゴールはない。
なぜなら、彼らはどんな偶像も必要とせず、防衛はもはや何の目的にも役立たないからである。
今や敵たちは無用となる。
謙遜が敵対することはないからである。
謙遜は、創造が神の意志であることを知っており、自らの本性に満足しているので、恥じ入って隠れることはない。
その無私性が自己であり、これを、謙遜はすべての出会いの中に見る。
そこでは、それはすべての神の子と喜んでつながり、神の子の清らかさを自らも彼と共有していると認識する。
今や、祈りは、ものごとや肉体やあらゆる種類の神々から成る世界から引き上げられ、あなたはついに聖性の中で休らうことができる。
謙遜は、どのようにすればあなたが神の子としての自分の栄光を理解して罪の傲慢さを認識できるのか、その方法を教えるためにやってきた。
一つの夢が、あなたからキリストの顔を隠してきた。
今、あなたは彼の無罪性を見ることができる。
階梯は高く聳え立つまでになった。
あなたは、ほとんど天国の近くまできている。
旅が終わるまでの間に学ぶべきことは、あとわずかしかない。
今では、祈りにおいてあなたとつながるすべての者に対し、あなたは次のように言うことができる。
私はあなたがいなければ進むことができない。
あなたは私の一部なのだから。
そして真理においては、彼はその通りのものである。
今では、あなたは彼と真に共有しているもののみを求めて祈ることしかできない。
なぜならあなたは、彼が一度も去ってはいなかったということや、孤独だと思えた自分が彼とひとつのものだということを、理解したからである。
これとともに階梯は終わる。
これ以上、学びは必要ないからである。
今、あなたは天国の門の前に立ち、あなたの兄弟もそこであなたの傍らに立っている。
芝生は深々として、静かである。
ここでは、あなたが来るべき時のために約束されていた場所が、長い間あなたを待っていた。
ここで時間は永遠に終わる。
この門で、永遠そのものが、あなたとひとつにつながるだろう。
祈りは、本来それが意図されていたものとなった。
あなたが自分の中のキリストを認識したからである。