【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

(レッスン353)

目的はひとつ。

 

「愛」を目撃することだったのだ。

 

それ以外に目的はない。

 

何もかもを「正気」の心で見たら、「愛」しか見えない。

 

「私」の目は、何も見ていなかった。

 

形の世界で不安を追い続け、あるとかないとかに意識を使い続けていた。

 

キリストに譲ってしまう。

 

そしたら、人にも物にも濃密な愛だけが見える。

 

その中で休らい、安らう。

 

満ち満ちたぬくもりの中で。

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ワークブック

レッスン353

 

今日は、私の目にも、口にも、手にも、足にも、目的は一つしかない。

キリストに与えられて、世界を奇跡で祝福するために用いられることである。

 

父よ、今日私は、私のものであるすべてをキリストに与えます。

そうすれば、それらは私が彼と共有する目的に最も役立つやり方で使われるでしょう。

キリストと私は目的においてひとつにつながっているので、私だけのものは何一つありません。

こうして学びは、定められた目的地のすぐ近くまでやってきました。

いま少しの間、私はキリストの目的に役立つように、キリストとともに働きます。

それから私は自分の真のアイデンティティーの中で私自身なるものを失い、キリストが私の自己にほかならないことを認識します。

(レッスン352)

五感の目を通すと恐ろしく見えていたのに、愛で見たら、全てが満ち満ちていました。

 

どこまでもあたたかい光が続いていました。

 

これまで盲目でした。

 

形に囚われ、形ばかりに気を取られて、その不安定な、あるような無いような、そんな朧げな世界に一縷の望みをかけていました。

 

私の目を全部、聖霊に預け、かわりに見てもらいます。

 

身体を預け、心眼にゆだねます。

 

安らかさ、休らかさ、満ち満ちたぬくもりに揺蕩います。

 

真の力にゆだねます。

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ワークブック

レッスン352

 

裁きと愛は正反対のものである。

一方からは世界の悲しみのすべてが生じる。

もう一方からは、神ご自身の平安が訪れる。

 

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赦しは無罪性だけに目を向け、裁くことはしません。

赦しを通して、私はみもとに参ります。

裁きは私の目を眩ませ、盲目にします。

しかし、この世界では赦しに反映されている愛が、あなたの平安を再び見出す道をあなたが私に与えてくださっていることを、私に思い出させます。

この道をたどることを選ぶとき、私は贖われます。

あなたは私を慰めもなく放っておくことはされませんでした。

私は自らのうちに、あなたについての記憶と、私をそこまで導く存在の両方をもっています。

父よ、今日、私はあなたの声を聞き、あなたの平安を見出したいと願います。

自分自身のアイデンティティーを愛し、その中にあなたについての記憶を見出したいのです。

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(レッスン351)

もともとあった内側の「親密」な感覚。

自分の内側の静かなぬくもり。

それが延長されるままを邪魔しないでいたい。

 

お気楽だったり、取り繕うのが面倒だったり、単純だったり。

 

ただ愛おしかったり、楽しかったり、嬉しかったり。

 

そんなもともとあった無邪気さをそのまんまにしておく。

 

疑いの視覚を放棄する。

それが湧き上がってきたら、ただそこらあたりに置いておき、聖霊に優しく愛でられ消えていくままに。

 

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レッスン351

 

罪のない兄弟は平安への導き手である。

罪深い兄弟は苦痛への導き手である。

私は自分が見たいと選んだほうを見ることになる。

 

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神聖なあなたの子でなくて誰が私の兄弟でしょうか。

そしてもし私が兄弟を罪深き者と見るなら、私は自分自身を、神の子ではなく罪人だと宣言していることになります。

それは、恐ろしい世界の中にあって友もいない孤独な罪人です。

しかしこの知覚は私が下す選択であり、放棄できるものです。

私は兄弟を罪なき者として、神聖なあなたの子として見ることもできます。

そしてこの選択をすれば、私には自分の無罪性が見えます。

私の傍らには永遠の慰め手であり友である聖霊が見え、安全で明確な私の道が見えます。

ですから、父よ、御声を通して私のために選んでください。

聖霊だけが、御名のもとに正しく審判するからです。

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レッスン350

奇跡を差し出すだけでいいのです。

 

奇跡を差し出すというのは、奇跡しか起きていないと認めること。

 

身体に不調が起きたり、社会的、人間関係で何かあっても、それを「良い悪い」で決めつけたり、解釈することをやめて、「わかりません」「おまかせします」とゆだねてしまう。

 

この「差し出す」「頼る」姿勢だけを選べばいい。

 

何が何だかわからないし、でも大丈夫。

 

真実の記憶だけが確かだから。

 

「ゆだねる」姿勢で見渡すと、至るところ愛だけがある。

 

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レッスン350

 

奇跡は、神の永遠の愛を鏡のように映し出す。

奇跡を差し出すことは、神を思い出すことであり、神についての記憶を通して、世界を救うことである。

 

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私たちが赦すものは、私たちが知覚する自分自身の一部となります。

神の子はあなたに創造されたままに、彼自身の内側にすべてのものを組み入れます。

あなたを思い出せるかどうかは、彼の赦しにかかっています。

彼の本性は、彼の考えには影響されません。

けれども彼が見るものは、彼の考えの直接の結果です。

父よ、ですから私はあなたに頼ります。

あなたについての記憶だけが私を自由にします。

そして私の赦しだけが、あなたについての記憶を私に戻し、感謝のうちにそれを世界に与えることを教えてくれます。

 

そうして私たちが神の奇跡を集めるとき、私たちは真に感謝に満たされるだろう。

神を思い出すとき、愛の実相の中で、神の子が私たちに取り戻されるからである。

(全文)

 

(レッスン349)

本当に見るところを頑なに見ずにいて、不安定なところに焦点を当てていた。

 

ただそれだけのことなんだなぁって。

 

本当に見るところは、なんて見やすいところだったのだろう。

 

優しくて安らかで静かで美しくて輝いている。

 

その内側への回帰の延長として、自然な視点と視線のやり取りが生じる。

 

その優しいわかち合いの中でくつろぎ称え合う。

 

この恩寵に抵抗することに多大なエネルギーを使っていたなんて。

 

そんな愚かなことは本当にやめて、素直に受け取りたい。

 

わからなさにくつろぐ。

 

愛に休らう。

 

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レッスン349

 

今日、私は自分にかわってキリストの心眼(ビジョン)に、すべてのものごとを見てもらう。

そしてそれらを裁くことなく、その一つひとつに愛という奇跡を与える。

 

そのようにして私は自分が見る一切を解放し、私が求めている自由をそれらに与えたいと思います。

そのようにしてのみ、私は愛の法則に従い、自分が見出したいものを与えて、それを自分のものにできるのですから。

私がそれを自分が与えたい贈り物として選択したので、それは私に与えられるでしょう。

父よ、あなたの贈り物は私のものです。

私が受け入れる一つひとつが、私が与えるための奇跡を、私にもたらします。

そして自分が受け取りたいように与えることで、私はあなたの癒しの奇跡が私のものであると学びます。

 

私たちの父は、私たちの必要を知っている。

神はそのすべてを満たす恩寵を、私たちに与える。

だから私たちは、世界を祝福するために、そして私たちが神のもとへ戻って自分たちの心を癒すために、神が私たちに奇跡を送ってくれると信頼する。

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(レッスン348)

「・・・・・・・・・・」

 

怒り、恐れが、取り去られてしまうと、何も語る必要がなくなる。

これまで、必死に「個人」という罪意識の方に張り付いていたんだなぁ。

この世界をリアルに仕立て上げるために、価値がないものに価値を見たり、解釈に余念がなかった。

 

本当に狂っていたなぁ。

 

癇癪をにぎりしめていたときは、癇癪の元になっているものをどうにかしなきゃいけないと考えていたけど、自分が勝手に作り出しただけだ。

外には何もない。

 

昨日も、ある人を通して、「癇癪」に触れたけど、びっくりした。

 

私もかってはこんなにも「個人」に埋没していたのかと、ちょっとクラクラした。

それは、自我の残像の残り火。

 

だからこそ、そんな私とその人が、本当は神の恩寵の中で安らいでいるのを認める機会だった。

 

本当にあるものだけの中にいる。

 

神の恩寵の中にいる。

 

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レッスン348

 

あなたに包まれている私には、怒りや恐れの原因はありません。

知覚されるどの必要性においても、あなたの恩寵だけで充分に満たされます。

 

父よ、あなたがここにおられ、私がひとりではないと、思い出させてください。

私を包んでいるのは、常しえの愛です。

私には、あなたと共有する完璧な平安と喜び以外に何かをもたらす原因はありません。

私が怒りや恐れを必要とする理由などあるでしょうか。

私を包むのは完璧な安全です。

あなたの永遠の約束が私とともにあるとき、私におそれるべきものなどあるでしょうか。

私を取り囲んでいるのは、完璧な無罪性です。

あなたがあなたご自身の聖性と同じように完璧な聖性のうちに私を創造されたというのなら、私が何を恐れたりするでしょう。

 

神が私たちに行わせようとするあらゆることにおいて、私たちは神の恩寵を受け取り、それだけで充分に満足する。

そしてそれだけを、私たちは自分の意志とし、神の意志とするという選択をする。

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(レッスン347)

怒りは、私が「個人」なんだ!という誤解の解釈から生じる。

 

自分たちは、愛という「全体」だった、と思い出すと、怒りは速やかに去っていく。

 

「個人」という限定的な信念があっただけ。

 

「個人」を守るためにいろんな感情が生じるけど、ただそれだけのこと。

 

それに良し悪しや意味や価値はない。

 

「個人」を躍起になって消すなんてしなくていい。

 

ただその表れを静かに眺め、愛(め)でて、「全体」の中に自然に消えていくのを見守ろう。

 

私たちは「全体」という愛なのだから、怒りようがなかった。

 

「全体」という愛の壮大さは祝福されるだけ。

 

完璧な平安の目覚め。

 

卑小さを愛で癒し、ゆっくりと受け入れる。

 

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レッスン347

 

怒りは必ず裁きから生じる。裁きは、奇跡を自分から遠ざけておくために、私が自分自身に突きつける武器である。

 

父よ、私は自分の意志に反するものは欲し、自分の意志が望むものは欲しません。

私の心を正してください。

心が病んでいます。

しかしあなたは自由をくださいました。

今日、あなたの贈り物を自分のものと宣言します。

私のために正しく審判する存在として与えられた聖霊に、すべての判断をゆだねます。

聖霊は私が見ているものを見ますが、真理も知っています。

苦痛を眺めますが、それは実在しないと理解し、その理解の中で苦痛は癒されます。

聖霊は、夢が私に自覚させまいとする奇跡を与えてくれます。

今日、聖霊が審判してくれますように。

私は自分の意志を知りませんが、聖霊は、それはあなたの意志と同じだと、確信しています。

聖霊は私のために語り、あなたの奇跡を私のもとに呼び寄せます。

 

今日は耳を傾けよう。

じっと静まり、神はあなたを愛するわが子であると審判したと、優しい神の声が安心させてくれるのを聞こう。

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