「これさえあれば、幸せになれる」
「これがあれば、完璧」
「これを習得すれば、満たされる」
という思いは、
「今は幸せじゃない」「今は完璧じゃない」「今は満たされていない」という自分を延々と信じて、「欠乏」という誤った場所に自分を置いているのですね。
彼(彼女)とうまくいけば、
お金があれば、
結婚できれば、
子どもが出来れば、
仕事が順調ならば、
健康ならば、
コロナが落ち着けば、
あれを購入すれば、
と、次から次に「これさえあれば」は増え続けます。
「これさえあれば」、という動機で何かをやったり、行動している間は、ずっと、「今」は「幸せじゃないけど」という宣言し、ずっと、その宣言通りの「幸せじゃない」自分を生きてしまいます。
私の場合は「この身体の調子さえ整えば」とか、「奇跡のコースを完璧に真に習得すれば」とか、「ゆるしが深くすすめば」とか。
私もずっとこんな感じで「今は足りてない」けど、「これさえあれば!」・・・・と、
「幸せ」は外側の条件で決まると誤解して、「これさえあれば」の解決に一生懸命でした。
「まだまだ、幸せの材料がそろっていない!」と、ずっと不満、不満足、不安を抱えていました。
当時、ヒプノセラピーやゲシュタルトセラピーで、「信念」や「記憶」をつなぎ止めている感情を解放したりしていたので、大きな「信念」や「記憶」の解放は随分やってきた、と自負していましたが、まだまだ表面的で、「分離の意識」「自我」の理解が中途半端だったですねー、、。
「これさえあれば・・・」という「信念」は、「欠乏」の信念ですね。
「私はまだまだ足りてない」という、”分離の世界”のストーリ。
”分離の世界”をリアルだと思い込んでいて、
なので気楽になんかなれません、深刻な世界なのです。
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これらの「信念」を見抜くには、
日常のささいな事の一つひとつに対して、
「これさえあれば」「これがなきゃ」という動機で動いていないか?に氣づくことです。
「これさえあれば」「これがなきゃ」以外の動機は何か?といえば、
「今ここ」という喜びや愛のみが動機。
未来に期待した「これさえあれば」というものは永遠に未確定なのですから。
あるのは「今」というその瞬間だけ。
そして、「今」という瞬間につながるには「思考」の世界にいたら不可能。
で、だからといって「思考」を止めることも難しいですが、私たちは「これさえあれば」「これがなきゃ」という「動機」に気づくことはできます。
立ち止まって、「わたしはどうしてこれをしようとしているんだろう?」と自分に問います。
「これがなきゃ」で動こうとしていたら、その「動機」に対して、「幸せになるのに条件はいらないよ~」と教えてあげます。
具体的な行動を止める必要はなくて、
その「動機」を見直すだけなのです。
そして「これがなきゃ」を固定化させている元ネタの感情感覚を感じてあげるのです。
「ダメだとおもっていたんだね」
「不安だったんだね」
「怖かったんだね」
「悲しかったんだね」・・・・。
ちゃんと感じた先に、「これがなきゃ」は必要なくなり、消えていき、その空白に、濃厚な生の喜び、愛がすでにあった!!!と「思考」「信念」の障壁が取り去られた「純粋な空間」の中にいたことが感じられていくのです。
こうして、ただ「行動」「物事」が「私はまだまだ足りてない」という深刻さではなく、純粋な喜びや気楽さでの関わりになっていくでしょう。
最初はなかなか、習慣化している「動機」を冷静に見抜くことが難しいかもしれませんし、もうやっちゃった後にしか氣がつかないかもしれませんが、
だからといって、反省したりジャッジする必要はなく、「あぁ~、練習しょう~」って気楽に取り組みます。
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私の場合の例もまた次回書きたいです。