【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

コース学習で深まった麗しきパートナーシップ

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心の構造の学びを始めて、それが納得できるようになってから、

私の、夫に対する関わり方、関係は変化していきました。

 

心の学びを始めるまでは、些細なことですれ違っては「あー、この結婚は間違っていたかも」と嘆いたり「いつお別れするかわからないから、その時のために準備しないといけないかもなぁ・・・」などチラチラ思いがよぎったりしていましたし、

「わかり合えない」「わかってくれない」「認めてくれていない氣がする」「期待していたのと違う」などと疑心暗鬼で不平不満が募り、気分が落ち込んだり、機嫌が悪くなったり、喧嘩になったりしていました。

 

学びと氣づきで、「人とのパートナーシップは、自分自身とのパートナーシップを投影している」ということが本気で腑に落ちてから夫との関係は改善していきました。

 

さらには、奇跡のコースを学習してからは、「パートナーシップ」という概念が根本からひっくり返されました。

 

あまり自覚していなかったのですが、これまで、夫に確かさ、ゆるぎなさ、特別性を求め、満たしてもらいたいと思っていました。

 

だから、「確かさ」が感じられない時は、悲しみ、怒り、拗ね、不満が噴き出します。

 

また、「確かさ」を与えてくれない時は、「きっと自分に価値がないからだ」と卑下します。

 

自分の価値を認識するために「確かさ」が必要で、それを夫に求め、だからこそ必死にかけ引きしたり、コントロールします。

 

例えば、気を引くためにすねたり、挑発的な態度でいたり、「私、こんなに頑張ってるのよ、なのにあなたは、、、」と被害者意識をアピールしたり。

(今は、これが一番心理的に逆効果だとわかりました(苦笑))

 

無自覚、無意識でしたが、いつも夫に「確かさ」を求めていたのです。

 

夫の「確かさ」を認識できないと、私自身が「確か」じゃない、と信じていたわけです。

 

そして、夫の「確かさ」があてにならないなら、自分が自立して頑張ろう!とやってきたのです。

 

これらの、

 

「パートナーシップ」の名のもとに繰り広げてきた"渇望”は「分離意識」によって作られたものだということ。

 

また、この「不確かな物質世界」で「確かさ」を求める無理難題を止めないこと、叶わない願望を持ち続けることは、自分を責め続け、苦しめ、罰し続けられるから」!!!という衝撃のカラクリが、「奇跡のコース」によって明らかになったのです。

 

※これは、「親」、「友人」、「人間関係」に「確かさ」を期待して、それが叶えられないことで親、友人、他者との間に葛藤を持っていることと、全く同じ構造です。

 

これまで「パートナーシップ」と思ってきたものは「罪悪感の製造シップ」だったのです。

 

例によって、この氣づきに、しばらくは愕然としましたが、

 

何をどんなに期待しても、何を求めても、そして、それが手に入ったとしても、この世界においては一時的な安心しか得られず、しかも、それは、自作自演の「罰ゲーム」だったことが、だんだん可笑しくなってきました。

 

悲劇ではなくて喜劇だなぁと笑えてきました。

 

そして、私は自分の「罰ゲーム」に必死になっていて、夫の本当の姿を一度も(結婚して20数年)見ていなかったのです、見ようとしていなかったのです・・・。

 

私は私の曇った自我のメガネで夫を見ていたのです。

これも大きな衝撃でした。

 

・・・

 

「本当に見たいです!」と自我のメガネを外すことを決めました。


そして、十分過ぎるほどのサポートを「奇跡のコース」が促してくれます。

 

自我のメガネを外すとは、具体的には、「私は何もわかりません」と委ねるのです。

 

「私は夫を見て、〇〇だと思っているけど、本当は何もわかりません」

「私は夫が言ってるのを聞いて、私の考えと違うけど、どちらが正しいとか良いとか、本当は何もわかりません」

「私は夫に〇〇を望んでいましたが、本当は何がベストかなんてわかりません」

 

こんな感じで、自我の主張を傍に置き続けて、その「空間」のままでいるのです。

 

「わからなさの空間」・「無防備」な心のまんまで目の前の夫に関わるのです。

 

最初は、無防備だと傷つくかもと怖かったですが、「空間」「無防備」であればあるほど、心地良さ、穏やかさに包まれました。

 

この心の姿勢は、①「依存」でもなく、②「自立」でもなく、コースから導かれた③「聖なる関係」だったのです

 

ようやく、私は夫の本当の姿を感じられるようになっていきました。

それはなんとも言えない幸せでした。

真に求めていたのはこの関係性だったのです。

 

最初からひとつだった、無防備な心と無防備な心の麗しきパートナーシップ。

 

「夫の本当の姿」は「私の本当の姿」でした。

 

私たちは「同じ」だったのでした。

 

「わかり合えない」「わかってくれない」「違う」って言い張っていたのは、曇った自我のメガネ。自我の「罪悪感」の主張。

 

本当は私たちは「同じ」で「ひとつ」、そして「空間」「無防備」という心地良さに抱かれていたのでした。

 

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「奇跡のコース」にて、このような心の渇望、葛藤の様子から、それを手放すまでのプロセスが難なく見透かされ、あらゆる箇所で表現されています。

 

それらの文をピックアップしましたので、紹介させてください。

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【愛の一つの側面を別の側面の代替にしようとするなら、あなたは一方にはより小さな価値を与え、他方にはより大きな価値を与えたのである。あなたはそれらを分離させただけでなく、それらの両方を裁いたことにもなる。だが、あなたは最初に自分自身を裁いていた。さもなければ、あなたは決して、ありのままの兄弟ではないものを自分が必要としていると想像したりはしなかっただろう。自分を愛に欠けたものを見なしたのでない限り、あなたが彼らを自分と同じく欠如の中にいるものだと判断することはなかったはずである。 テキスト 第15章 Ⅴ 6:3~6】

 

【地上にいる者たちは誰もみな特別な関係を築いてきた。天国にはそのようなことはないとはいえ、聖霊はここではそれらの特別な関係に天国の感触を加える方法を知っている。聖なる瞬間においては、誰も特別な者ではない。なぜなら、あなたの個人的な必要が誰の中にも侵入しないので、それにより兄弟たちがそれぞれに異なる者には見えないからである。過去からの価値観がなければ、あなたは彼ら全員を同一の存在であり、あなた自身とも同質の存在であると見るだろう。また、あなたは自分と彼らとの間にいかなる分離を見ることもないだろう。 テキスト 第15章 Ⅴ 8:1~4】

 

【安全のない場所から自分を守ろうとする試みによって、安全を追求してはならない。あなたも兄弟たちも、あなたの父も、あなたにとってひどく恐ろしい存在となっている。そして、あなたはいくらかの安全のかけらが見つかると思える特別な関係を求めて、兄弟や父と駆け引きしようとする。これ以上、あなたに授けられている想念とあなた自身の想念を離しておこうとするのはやめなさい。それらが一つところに運ばれて、それらの存在しているところで知覚されたなら、そのどちらを取るかという選択は、穏やかな目覚め以上のものではなく、もはや眠りの必要がなくなり、日の光の中で目を開けるのと同じように簡単なことである。 テキスト 第15章 Ⅺ 1:2~6】

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