人に向けていた怒りの全てが、本当は自分への罪悪だったと本当に腑に落ちるのに、かなりの時間がかかった。
頭ではわかっているつもり、という状態を長い間続けてきた。
けど、正直さの純度が深まると、一ミリの違和感が見抜かれていく。
そうしたら、その違和感をまっすぐに見据え、
それに力を与えていた「感情感覚」を浮上させ、感じ、通り過ぎさせていく。
些細なゆるせなさの数々を、全部誤魔化さずに、光にさらす。
これって、日々、素直であるだけ。
確かに起こる「引き上げられる感覚」。
もう、
自分のことも、誰のことも、
「罪悪」の鎖につなぎ止めようとは思わない。
そして、ゆるしという「なかったことをなかったと見る」ことと、
その純度が深まるたびに喜びと祝福に切り替わる。
この世界で為すべき唯一のことはこれだと安堵する。
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レッスン134
私が赦しをありのままに知覚できますように。
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あなたは自分の罪が実在すると考えているので、赦しを欺瞞と見なす。
罪が真実と考えているので、赦しを欺瞞を見なす。
罪が真実であると考えていながら、赦しが偽りだと信じずにいることは不可能である。
(4:1.2)
自分の罪が実在するという見地から赦される者は、哀れにも侮られ、二重に咎められている。
すなわち、まずは自分で犯してしまったと思っている事柄について自分自身から責められ、さらに彼を赦す者により、もう一度責められる。
(5:5)
罪の非実在性が、赦しを自然で完全に正気なものにする。
赦しを差し出す者には深い安堵感を、赦しを受け取る者には静かな祝福をもたらす。
それは幻想と黙認することはないが、それらを軽く笑いながら拾い集め、そっと真理の足元に置く。
そしてそこで幻想は完全に姿を消す。
(6:1~3)
赦しは、この世界の幻想の中で真理を象徴する唯一のものである。
それは幻想の虚無性を見て、それらが纏う数限りない形態を素通りする。
嘘を見ても、騙されることはない。
罪悪感で氣がふれた罪人たちの自責の叫び声を、氣にかけることもしない。
赦しは、彼らを静かなまなざしで見つめ、ただ彼らに向かって、「兄弟よ、あなたが考えていることは真理ではない」と言うだけである。
(7:1~5)
彼は自分を救うために戦う必要はない。
自分を追いかけてくると思っていた怪物を殺さなくてもよい。
また、以前には自分の安全を守ってくれると思っていた頑丈な石壁や鉄の扉を建てる必要もない。
彼は、自分の心を恐れや惨めさでがんじがらめにしていた重たいだけで役立たずの甲冑を、脱ぎ捨てることができる。
足どりも軽く彼が一歩前進するたびに、跡には星が一つずつ残り、彼の後に続く者たちにその道を教える。
(12:1~5)
赦しは練習されなけでばならない。
世界は赦しの意味を知覚できず、その恩恵をあなたに教えるための導き手を提供することはないからである。
赦しが従う法則の理解につながるような考えも、赦しが反映する一なる想念も、世界中どこを探しても見つからない。
赦しはあなた自身の実相と同じように、この世界にとって異質のものである。
しかしそれは、あなたの心をあなたの内なる実相とひとつにつなぐものである。
(13:1~4)
聖霊の指示に従って兄弟をひとり選び、心に浮かぶままに彼の「罪」を一つずつ並び上げていく。
それらのいずれにも決して拘泥しないようにする。
そして、今、あなたは、すべての罪の概念から世界を救るために、彼の「不愉快な行為」を用いているだけだということを実感する。
あなたが彼について思ったすべての邪悪な事柄をざっと考慮し、そのたびに「私はこれと同じことをする自分を責めたいだろうか」と自問する。
(15:1~3)
彼の中にある罪についてあなたが抱いていたすべての考えから、彼を自由にしなさい。
そうすれば今、あなたは自由を得るための準備ができたことになる。
もしあなたが喜んで誠実にここまで練習してきたなら、引き上げられるような感覚や、胸の奥が軽くなるような感覚や、深く確かな安堵感などを感じ始めるだろう。
その後は残りの練習時間を用いて、兄弟を縛りつけようとして実は自分自身を縛ってきた重い鎖からの脱出を体験しょう。
(16:1~4)
赦しは一日を通して練習されなければならない。
あなたが赦しの意味を忘れ、自分自身を攻撃するときは、これからも何度もあるだろう。
そういうときには、次のように自分にいいながら、あなたの心がこの幻想を看過できるようにしなさい。
私が赦しをありのままに知覚できますように。
私はこれと同じことをする自分を、責めたいだろうか。
私はこの鎖で自分を縛るつもりはない。
何をするときも、次のことを思い出そう。
誰もひとりで十字架にかかることはない。
しかしまた、誰も一人で天国に入ることはできない。
(17:1~7)