コースの表現では、分離による「罪悪」、「怒り」、「不平不満」という言葉で表されていると思いますが、
私のこれまでの人生においては「不機嫌さ」という表現がしっくりきます。
外側の世界に見ていた「不機嫌」さ。
幼いころはつねに不機嫌な母や祖父のご機嫌を取るのに必死で、
学校では担任の先生の不機嫌さにいつもおどおどし、
昨日は普通だったのに急に不機嫌になる友達や彼氏に振り回され、
不機嫌な上司や同僚が嫌で、結局職場を辞め、
不機嫌な夫とよく衝突し、
いろんなコミュニティーでは不機嫌そうな人が気になってしまい居心地悪くなり、
不機嫌なお客様をどうしたら癒せるのかと迷宮入りし・・・。
「なんで不機嫌なの?何に怒ってるの?私のせい?私のどこが悪いの?何を直せばいいの?」
「私のせいだ!」
「私は嫌われる」
「私は愛されない」
「私も愛せない」
「愛し方がわからないし、愛がわからない」
そして、機嫌を取ったり、「良かれと思って」対処すればするほど、裏目に出ました。
そのうち行動することはやめたけど、心の中では「不機嫌さ」を裁いていました。
・・・
気づいたら、いつも誰かが「不機嫌」。
「きっと私のせいだ、私の存在が機嫌を損ねさせる」とすぐ思う。
「不機嫌」な人がほおっておけない。
そわそわしてしまい、機嫌を取ったり、救わなきゃ、と思ってしまう。
だいたいは「不機嫌さ」に耐えられずに、逃げ出し、関係が続かない・・・。
けど、子供から「お母さんって、鼻歌歌っている時以外は、不機嫌な時だね!」と言われ、ハッとした。
「私は、あんなに嫌な不機嫌な状態を、今度は子どもにしていた・・・最低だ」
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「コース」の教えが深まって「投影」の原理が腑に落ちて氣づいたのは、
「本当は私が一番”不機嫌”だっだんだ」
「不機嫌さ(怒りと恐怖)を抑圧していたんだ」
「分離を信じ、不機嫌さという狂気を見ていたんだ」
そして外向きには、
私は「不機嫌」な人を心の中で強く攻撃している!ということ。
「不機嫌」な人をゆるせない。
「不機嫌」な人を説得して機嫌を直してほしいと強く思っている。
という風に捏造していたのです。
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「不機嫌」
ピンポイントでこの表現にたどり着いて本当に良かったです!
「コース」の述べる”罪悪””怒り”(恐怖)や”不平不満”は抽象的で、広範囲過ぎますので、私的な部分のひだまで届いていませんでした。(ざっくりわかるけど、理解が弱かった)
これまでの、私個人という罪悪人生ストーリーは見事に「”不機嫌”にまつわるエトセトラ」だったのでした。
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「コース」に感謝しています。
「コース」を通じて導いてくださった兄弟に感謝しています。
もう「外側」の不機嫌さに対処しません。
「外側」を取り繕うために頑張ったり、気を使ったり、人を責めたり、自分を責めたりする必要はありませんでした。
誰かの「不機嫌さ」やそれにまつわる大小の出来事、それがとても深刻そうなものでも、極力、もう具体的な対処はしません。
行動や言葉の対処はしません。
母の機嫌、友達の機嫌、夫の機嫌、親戚の機嫌、他者の機嫌・・・、そこからそっと離れて、まず静かになります。
じっとします。
そして、ただ自分の「不機嫌さ」の奥にある身体感覚の緊張やこわばり、力みを、全部感じて、解放して、聖霊に明け渡します。
私の分離の罪の象徴として現れた「不機嫌さ」のストーリーを全部見つめて、感じて、聖霊に渡します。
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そうしているうちに、「不機嫌さ」の影に覆われて混乱して見てこなかった「神の子」の私とつながりました。
本当にしっとりと潤いと平安と愛に満ちた感覚が広がります。
「神の国以外はもう何もいらない」と満たされます。
そして、副産物として、「外側」の世界にもいろんなほっこりする嬉しい変化があらわれます。
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ワークブック
レッスン161
聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。
ひとりの兄弟はすべての兄弟である。
どの心もすべての心を含んでいる。
どの心も一なるものだからである。
これが真理である。
しかしこのような考えが、創造の意味を明らかにするだろうか。
あなたはこのような言葉によって、完全に明瞭な理解を得られるだろうか。
それはただ空ろに響く音としか思えないはずである。
聞こえはよく、感覚的には正しく感じられても、根本的には理解されず、理解不可能なのではないだろうか。
具体的な考え方をするように自らに教えた心が、もはや、すべてを包含するという意味の抽象性というものを把握できない。
だから私たちは多くを学ぶために、わずかなものを見ていく必要がある。
(4:1~8)
恐れは貪欲で、目にするものをことごとく食い尽くす。
あらゆるものの中に自分自身を見るので、自分自身に襲いかかって、破壊したくなるからである。
(7:5)
兄弟を肉体と見なす者は、兄弟を恐れの象徴として見ている。
そして彼は攻撃する。
なぜなら、彼が見ているのは自分自身の恐れであり、それが自分の外側にあって、攻撃の構えをとり、再び自分とひとつになろうとして叫んでいる様だからである。
投影された恐れが次から次へと引き起こす怒りの激しさを見誤ってはならない。
それは猛り狂って金切り声を上げ、自分を作り出した者に飛びかかり食い殺したいと思うあまり、狂ったように空中に爪を立てる。
(8:1~4)
このようなものを、肉体の目は兄弟の中に見ているが、その人は、天国がいとおしみ、天使が愛し、神が完璧に創造した者である。
それが彼の実相である。
(9:1.2)
しかし彼をそのように見る視覚の中では、あなたも彼と同じ麗しき者であるから、あなたはひざまずくかわりに彼の手をとる。
(9:4)
ひとりの兄弟を、ほかの兄弟たちの象徴として選び、その人に向かって救済を求めなさい。
まず、できる限りはっきりと、あなたが見慣れている姿でその人を思い描く。
その人の顔や手足、服装を見る。
その人が微笑むのを見つめ、その人のいつものしぐさを眺める。
その後、次のように考える。
あなたが今見ているものは、あなたの罪をすべて赦せる人の姿をあなたから隠している。
その人の神聖な手が、あなたの手に打ち込まれた釘を抜き取り、あなたの血まみれの額から、あなた自身がかぶせたいいばらの冠を外すことができる、と。
その人があなたを自由にしてくれうように、次のように頼みなさい。
聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。
私はあなたをキリストのまなざしを見て、あなたの中に私自身の完璧な無罪性を見たいです。
そうすれば、あなたが呼びかけた相手であるキリストが答えてくれるだろう。
キリストはあなたの中の神を代弁する声を聞き、あなた自身の声で答えるからである。
あなたが今まで単なる肉と骨の塊だとみていた兄弟を、今、よく見てみなさい。
そして、キリストがあなたのもとにきたことを認識しなさい。
今日の主題概念はあなたにとって、怒りや恐れからの安全な脱出法である。
兄弟を攻撃しそうになったり、彼の中に自分の怖れの象徴を知覚してしまいそうになったら、必ず、ただちにこの概念を使うようにしよう。
そうすればあなたは、彼が瞬く間に敵から救済者へ、悪魔からキリストへと変容するのを見るだろう。
(12:1~6)
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小さい頃からこの世界に絶望しあきらめていた。
なるべくショックが少なくて済むように、
見ないふりしたり感じないふりしたり避けたりしてきて、
誤魔化しだらけ嘘だらけの日々だったので、
心理の勉強しはじめても、
もともと感じていた真理に対しても、
正直に感じることを避けてきた。
やはり周りとのズレが恐ろしかった。
誤魔化しも嘘も私の中では自動反応と化していたので、
もうナチュラルに誤魔化しと嘘まみれ。
この部分は本当に意識して関わる必要がある!ということに氣づいた。
この世界が幻であることにはもうもうずーーーと昔に氣づいていた。
頭ではなく、心の奥底で。
誤魔化す事なんかできないし不可能なことでした。
この世界に反応できない、と感じていた。
ただ反応しないとこの世界とつながれない、、、、、そんな風に間違った解釈をしていた。
コースに出会い、
この”物質世界”に反応できない!という理由をハッキリと確認できて、
やっと心を本当の場所に戻すことが出来ていってる。
完全な抽象性が、心の自然な状態である。
(2:1)
自然のままでいいということ。
生命という真の意味。
怖れをそっと脇におき、
このまま祝福の中にいます。