分離していないということを感じる。
この感覚を深く味わおう。
散らしている心を内側に取り戻す。
あちこちに飛ばしていた意識をひとつにする。
黙って座る。
私たちの生命は私たちが想像しているようなものではない。
当たり前の奥に、痛みの奥に、苛立ちの奥に、
しっとりと安定している楽園だけがある。
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ワークブック
レッスン167
一なる生命(いのち)があり、それを私は神と共有している。
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死とは、自分が自分の創造主から分離しているという考えである。
(4:1)
死が生命(いのち)から生じることはありえない。
(5:1)
心は自分が眠っていると考えることができるが、それだけである。
心は自分が目覚めているときの状態を変化させることはできない。
心は肉体を作ることができないだけでなく、肉体の中に住むこともできない。
心にとって異質であるものは存在しない。
なぜなら、そうしたものには源がないからである。
心は、すでに存在しているものだけを創造するのであり、もともと自分にない属性をそれらに与えることはできないし、自らの心としての永遠なる状態を変えることはできない。
それは物質を作り出すことはできない。
死ぬように見えるものは、ただ心が眠っていることを示すしるしであるにすぎない。
(6:1~7)
生命に対極があるとすれば、それは生命の別な形でしかありえない。
そうしたものであれば、自らを創造したものと和解できる。
それは真の意味で反対のものではないからである。
その形態は変わるかもしれないし、それそのものではないように見えるかもしれない。
しかし目覚めていようと眠っていようと、心は心である。
創造されたいかなるものにおいても、心は心の反対のものではないし、心が自分が眠っていると信じるときに作り出しているように見えるものにおいても、心が心の反対のものとなることはない。
(7:1~5)
今日、私たちは真理の子どもとなって、私たちの神聖な継承遺産を拒むことをやめよう。
私たちの生命は私たちが想像しているようなものではない。
自分の目を閉じたからといって生命が変化したり、自分が眠りに入り、夢の中で本来の自分とは反対のものを見たからといって、自分が自分ではないものになったりするだろうか。
私たちは今日、どのような形の死を願うこともしない。
また、神ご自身が永遠なる生命の想念を置いたところに、その反対のものとして私たちが想像したものを、一瞬たりとも住まわせないようにしよう。
(10:1~5)
眠っている心は必ず目覚める。
そうした心は自らの完璧さが生命の主を実に完璧に映し出しているのを見るとき、そこに映し出されたものの中へと溶け込んでいくからである。
それは映し出されているものそれ自体となり、そのように映し出すことを可能にしているその光となる。
心眼は今や必要ではなくなる。
なぜなら、目覚めた心とは、自分の源や自己や聖性を知る心だからである。
(12:3~7)