自我の満足を満たさないように注意深くなる、聖霊に指示を仰ぎ、自我の主張を脇におくと、心が深く満たされていくようになってきた。
自我にとってはわけのわからないことだ。
だって、この世界に対して機能していないし、生産的ではないし、役に立っていない。
自我は確かに不満足を訴えてくる。
「つまんない」「このまま忘れ去られる」「なんかが間違ってて、きっとがっかりさせられる、後悔したらどうしょう」などなど・・・。
自我の訴える「欠乏感」を無視。
自我の訴える「大変な出来事」を無視。
自我の訴える「未来への不安」を無視。
抑圧ではなく、浮上させて、聖霊に渡してしまう。
そんな感じでそのまま無視。
そうすればするほど、形容しがたい満足感、充実感が湧いてくるのだ。
軽いし、嬉しいし、楽ちん。
あぁそういうことか・・・と、喜びに浸る。
この世界に張り付けられていた卑小な役割から免除され自由さを思い出す。
「心」そのものを生きていいのだって思い出す。
嬉しい。
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レッスン139
私は自分自身に贖罪を受け入れる。
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これが選択の終わりである。
ここで、私たちは神が創造したままの自分を受け入れる決断に至るからである。
(1:1.2)
「私は何なのか」というこの単一の単純な問いを伴わない葛藤は、存在しない。
(1:6)
自分が何であるかについての確信の欠如は、あまりにも大規模な自己欺瞞であるため、その巨大さは想像を絶するほどである。
(3:1)
しかし彼は生きているのだから、本当はすでにそれを受け入れているはずである。
そしてそのうえで、それに逆らった判断をし、その価値を否定し、それから、彼を生かしている唯一の確実性を自分は知らないと決断したのである。
(4:4)
しかしあなたは、自分の中のどの部分が、自分自身を本当に疑うことができるのか、と問うことはしない。
その問いを発する部分は、真にあなたの一部ではありえない。
なぜならその部分は、答えを知っているもう一部分に対して質問するからである。
疑っている部分があなたの一部だとしたら、確実性はありえないことになる。
(5:8~11)
贖罪が治療するのはこの奇妙な考えである。
すなわち、自分自身を疑い、自分が本当は何なのかについて確信を失うことが可能だという考えである。
このような考えは狂気の極みである。
しかし、これがこの世界では一般的な問いである。
(6:1~3)
世界が信じていることで真実なものは何一つない。
この世界の目的は、自分自身を知らないと主張する者たちがやってきて、自分とは何かと質問していられる安住の地を提供することである。
贖罪が受け入れられるときまで、彼らは何度もやってきて、自分自身を疑うことや自分の本性を自覚しないでいることは不可能だということを学ぶ。
(7:1~3)
あなたが何であるかは確かなことで、あなたに求められているのはただそれを受け入れることだけである。
(8:1)
私たちにはここで果たすべき使命がある。
私たちは、かって自分たちが信じていた狂気をさらに強化するためにここにきたわけではない。
私たちが受け入れたゴールを忘れないようにしよう。
私たちはただ自分たちの幸せを得るためだけにきたのではない。
私たちが自分の本性として受け入れるものが、私たちとともにすべての人々の本性とも宣言する。
兄弟を見捨ててはならない。
彼らを見捨てれば、自分を見捨てることになる。
彼らに愛のまなざしを向けなさい。
それによって、彼らは自分達があなたの一部であり、あなたが彼らの一部であると知ることができるようになる。
(9:1~7)
贖罪は、このことを教えると同時に、神の子の一体性は、彼が自分の本性を知らないと信じることによって損なわれはしないと実証する。
(10:1)
私は自分自身に贖罪を受け入れる。
私は今も神に創造されたままの私なのだから。
私たちは、神により神と同質のものをして創造されたときに与えられた智識を失ってはいない。
すべての心はひとつのものとして創造されているので、私たちはその智識をすべての人のために思い出すことができる。
そして、私たちの記憶の中には、兄弟たちが真実にはどんなに愛おしい存在であるかを思い出させるものがある。
すべての心がどれほど私たちの一部をなすものであるか、彼らが私たちに対しどれほど誠実であったか、そして父の愛がいかにして彼ら全員を包含しているか、といったことが、私たちの心によみがえってくるだろう。
(11:3~6)
数分の間あなたの心を空にするために、世界が聖なる神の子の周りにくもの巣のように張りめぐらせている妄想を一掃しなさい。
そして次のように言いながら、あなた自身についての智識を自覚させないようにしているかに見える鎖がどんなに脆いものかを学びなさい。
(12:2.3)