身体が調子良いと、心も軽くなると思っていたから、長い間、肉体の調子にばかり気を取られていた。
とにかく、身体が弱いことで、これまでベストな人生を歩んできた氣がしなかったので、ずっと不満足だった。
父も身体が弱くて苦労している姿を見てきたし、私自身、病気がちで気持ちが上がらなかったり、生活に支障があったり、はたまたスタイルが悪いことがコンプレックスで、自信が持てずに、対人関係にも影響されたりして、身体を恨み、身体に気を取られ、身体の扱いに翻弄されてきた。
だけど、この事に本当は心の奥では違和感があり、だけど、この違和感を言語化できずに、ずっとやり過ごしながら生きてきた。
「コース」ではきっぱりと、これが自我の働きだと。
分離の象徴が”肉体”で、分離という「差異」が作る罪悪感の元に、「死」という罰を味わうために作り上げてきたストーリーだ、と述べられていて、驚嘆し、そして腑に落ち、安堵した。
これまでの違和感の理由が明らかになり、今、日々、この事実を受け入れるレッスンと実践の中にいる。
どれだけ輪廻して、この「肉体」の夢を繰り返したのか?
かなり強固な夢の中にずっといたので、「コース」の実践中でも、すぐに忘れて、これまでの習慣で、つい身体に引っ張られて、身体の調子を見張ろうとし、身体を通した五感を基準にしてしまいそうになる。
だけど、レッスンと実践はとてもシンプル。
ただシンプルだからこそ、ついこれまでの習慣に流されてしまいそうになる。
どうぞ正しく知覚できますように。
聖霊に道を譲り続けられますように。
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ワークブック レッスン140
救済だけが治癒をもたらすと言える。
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世界が治療に役立つと知覚しているものは、肉体を「よりよいものにする」だけである。
それが心を癒そうとするとき、心と肉体を別なものと見ずに、心が肉体の中にあると考える。
だからこの世界のさまざまな形の癒しは、一つの幻想をもう一つの幻想に入れ替えることしかできない。
病気の信念の一つが別の形を取るようになることで、患者が自分はもう健康になったと知覚するだけである。
(1:2~5)
彼は癒されてはいない。
彼は自分が病気だという夢を見て、その夢の中で、自分を健康にする魔法の処方箋を見つけただけである。
しかし彼は夢から覚めてはいない。
だから彼の心は以前とまったく同じである。
彼は、自分を目覚めさせて夢を終わらせる光をまだ見ていない。
(2:1~4)
この世界では、人はただ自分が目覚めているという夢を見ることができるだけである。
(3:1)
病気は夢にすぎないと理解している心は、夢がとるどんな形態にも騙されないからである。
罪悪感がないところで病気が生じるころはありえない。
病気とは罪悪感のもう一つの形態にほかならないからである。
病人を癒すことは治療ではないので、贖罪は病人を癒さない。
病気を可能にしている罪悪感を取り去るだけである。
そしてそれがまさしく治療である。
(4:2~6)
治療は必ず聖性から生じ、聖性は罪悪感が大切にされているところでは見つからない。
神は聖なる神殿の中にとどまっている。
罪が入り込んだところに神は入ることはできない。
しかし神のいない場所は実在しない。
だから罪は、神の慈しみを逃れて隠れ住む家をもつことはできない。
聖性が存在しない場所はなく、罪や病気が住みつくことのできる場所はどこにもない。
(5:2~7)
これが治療をもたらす想念である。
(6:1)
幻想を真理のもとへもっていく心だけが、真に変わることができる。
(7:4)
今日、私たちは病気の源について、私たちの心を変えることを目指す。
(8:1)
私たちは、今日、病気のように見えるものに惑わされない。
今日は、外観を超えて進み、癒しの源へと達する。
それは例外なくすべてを癒す源である。
どちらも等しく真理でない二つのものの間に有意義な区別などありえないということを、より深く理解すればするほど、私たちは今日の課題に成功するだろう。
そこに程度の差は存在しない。
また、実在していないものが、ある形よりもほかの形において真実であると信じる信念もない。
それらすべてが偽りであって真実ではないからこそ、治癒が可能となるのである。
(9:1~5)
私たちに必要な唯一の準備は、妨げになる雑念を、別々にではなく全部をひとつのものとして、退けることである。
(11:2)
両手を空にし、胸を躍らせ、傾聴する心で、次のように祈ろう。
救済だけが治療をもたらすものと言えます。
私たちが癒されるように、父よ、私たちに語ってください。
そして私たちは、救済が優しく自分たちを包み込み保護してくれるのを感じるだろう。
その平安はあまりに深く、もはや心が幻想に乱されることはなく、幻想が実在するという証拠を私たちが見ることもなくなるだろう。
(12:1~5)