【奇跡講座】 気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 【序文】【第一章 精神療法の目的】

本当には実在していないものを実在していると思い込んでいる。

その訂正。

 

実在していないものを実在していると思い込んでいるのは、わたしたち。

だれもそれを作っていない。

 

自分が作ったものを自分で作ったと認めることで、それは取り消される。

 

それが自分の人生を自分で引き受けるということ。

 

そして、真の自分の人生とは聖霊そのものだということ。

 

・・・

精神療法 ~その目的、プロセス、実践~ 

 

【序文】

 

精神療法は、存在する唯一の治療の形態である。

心のみが病むことができるので、心のみが癒され得る。

心のみが癒しを必要としているのである。

そのようには見えないが、その理由は、この世界に顕現されている事象が本当に実在するように見えているからである。

それらの実在性を個人が疑問視できるようになるために、精神療法が必要である。

ときには、個人が専門家からの助けを借りずに自分の心を開き始められる場合がある。

しかし、そのようなときでさえ、彼にそれを可能にさせるのは、常に、他者との関わりについての彼自身の知覚における何らかの変化である。

ときには、彼は「公認の」セラピストとの間で、より体系的で長期にわたる関わりを必要とすることもある。

いずれの場合も、課題は同じである。

患者は、幻想の「実在性」について自分の心を変えるために、助けてもらうことが必要なのである。

 

【第一章 精神療法の目的】

 

端的に言って、精神療法の目的は、真理を妨げている障壁を除去することである。

その狙いは、患者を助けて、彼が自分の凝り固まった妄想的体系を手放し、その土台となっている疑似の因果関係について再考し始めるように仕向けることである。

この世界では、誰も恐れから逃れられないが、誰でも恐れの原因を再考し、それらを正しく見極めることはできる。

神はすべての者に教師を授けており、この教師の叡智と援助は、地上のセラピストが提供できるいかなる貢献もはるかの凌ぐものである。

それでも、時と場合によっては、地上の患者とセラピストとの関わりが手段となって、この教師がより大きな贈り物を患者とセラピストの両方に授けることもある。

 

対人関係がもち得る目的として、聖霊を招き入れて聖霊自身の偉大な贈り物である歓喜を与えてもらうこと以上に、良い目的があるだろうか。

誰にとっても、神に呼びかけて神の答えを聞くことを学ぶこと以上に高邁なゴールがあり得るだろうか。

そして、道と真理と生命を想起し、神を思い出すこと以上に超越的な目的が、あり得るだろうか。

こうしたことについて助けるのが、精神療法の正当な目的である。

これ以上に神聖なものがあるだろうか。

というのも、精神療法とは、正しく理解されたなら、赦しを教えるものであり、患者が赦しを受け入れられるように助けるものだからである。

そして、患者が癒されるとき。セラピストも患者と共に赦される。

 

どのような形で苦しんでいるかには関わりなく、助けを必要としている者はみな、自分自身を攻撃しているのであり、その結果、彼の心の平安は損なわれている。

こうした傾向は、しばしば、「自己破壊的」と表現され、多くの場合、患者自身もそれらをそのように見なしている。

患者が理解しておらず、学ぶ必要があるのは、攻撃したりされたりできるこの「自己」とは、患者自身が作り上げた概念だということである。

しかも、彼はそれを大切にし、防衛し、ときには、その「自己」のためには、自らの「生命」を「犠牲」にすることさえ厭わない。

彼はこの「自己」を自分自身と見なしているからである。

この自己を彼は、為されたことの影響を被るもの、外的な勢力から要求されるままに反応するもの、そして、世界の力の最中になって、非力なものと見ている。

 

ということであれば、精神療法とは患者に自分で決断する能力についての自覚を取り戻させるものでなければならない。

彼に必要なのは、自分の思考を逆転させてもよいという気持ちをもつことであり、さらには、自分に結果を投影してきたと思っていたものが実は自分による世界への投影で作り出されていたということを、理解しようとする意欲をもつことである。

彼の見ている世界はそれゆえに存在していない。

このことが、少なくとも部分的にでも受け入れられるまでは、患者は自分自身を真に決断能力のある者と見なすことができない。

そして彼は自分の自由に対抗して戦うことになる。

なぜなら、彼は自由とは隷属だと考えるからである。

 

患者は、救済において進歩するために、真理とは神であると考える必要はない。

しかし彼は真理を幻想から弁別することを始めなければならない。

両者は同じではないと認識し、幻想を偽りと見なし、真理を真実であるとして受け入れる意欲を徐々に増していかねばならない。

そこから先は、彼の教師である聖霊が彼を引き受け、彼に準備ができているところまで連れていく。

精神療法は、単に、彼の時間を省くことができるだけである。

聖霊は自らが最善と見なすやり方で時間を用い、決して間違うことはない。

聖霊の監督下で行われる精神療法は、聖霊が用いる手段の一つであり、それは時間を省き、聖霊の仕事のためにより多くの教師たちに準備させるためのものである。

聖霊が選ぶ行路であればいずれによっても、すべての精神療法が最後は神に至る。

しかしそうしたことは神に任されている。

神はご自身の中で私たち全員が癒されることを望むので、私たち全員が、神のサイコセラピストたちである。