「目的」がこの世界の改善であれば、彷徨うばかりだった。
自我の欲求を消したり、動かしたり、代替えしたりと、一時的な癒しの中にいることで、自我は続いていく。
目的は、セラピストも患者もいない、という気づきにて成就される。
目的は、そこに分離がないと気づくことだから。
だから、セラピストは患者と関わる。
セラピストも患者で、患者はセラピスト。
ひとつだと認識するためだけに。
ここに癒しがあり、赦しがあり、空がある。
・・・
【第二章 精神療法のプロセス】
Ⅲ.サイコセラピストの役割
サイコセラピストは先導者である。
すなわち、彼は患者よりわずかに先を歩み、道にあるいくつかの落とし穴を先に見つけることで、患者がそれらを回避できるように助けるという意味において、先導者である。
理想的には、セラピストはまた、従う者でもある。
なぜなら、セラピストが見ることができるよう光を与えるために、一なる存在が彼の前を歩いているはずだからである。
この一なる存在がいなければ、サイコセラピストも患者もただ闇雲によろめきながら歩き続け、どこにも行き着かない。
しかも、もしゴールが癒しであるのなら、この一なる存在が完全に不在ということはあり得ない。
それでも、その存在が認識されないということはあるかもしれない。
その場合は、その時点で受容されることが可能なわずかな光のみが、真理への道を照らす光のすべてとなる。
癒しは、患者の限界によって制限されるのと同様に、サイコセラピストの限界によっても制限される。
したがって、このプロセスの狙いは、これらの限界を超えることである。
これは、セラピストと患者のいずれもひとりではできないことだが、両者がつながり合うとき、すべての限界を超越する可能性が彼らに与えられたことになる。
そうなると、今や、彼らの成功の度合いは、彼らがこの潜在的可能性のどれくらいを使用する意欲があるかで決まることになる。
その意欲は、最初は彼らのどちらからでも生じ得るが、もう一人もそれを共有するとき、それは増大していく。
進歩は決断の問題となり、ほとんど天国に行き着くこともできれば、地獄から一歩か二歩以上は進めないということもあり得る。
精神療法が失敗したように見えることは大いにあり得ることである。
退行のように見える結果が現れることさえある。
しかし最後には、必ず何らかの成功がある。
ひとりは助けを求め、もうひとりはそれを聞き、助けるという形で応答しようと努める。
これが、救済のための公式であり、必ず癒しをもたらす。
分割されたゴールのみが、完璧な癒しの妨げとなり得る。
まったく自我のない一人のセラピストは、何も言わずとも、ただそこにいるだけで世界を癒すことができる。
誰も、彼を見る必要はなく、彼に話しかける必要もなく、彼が存在することさえ知る必要もない。
ただ彼の存在感だけで、癒すに充分である。
理想的なセラピストはキリストとひとつになっている。
しかし、癒しは過程であって、既成事実ではない。
セラピストは患者がいなければ進歩できず、患者は、キリストを受け取る準備ができてはいないはずである。
できていれば、彼が病気になるはずはなかった。
ある意味では、自我なきサイコセラピストとは、癒しのプロセスの終着地点に位置する一つの抽象概念であり、病気を信じることなどできないほどに進歩しており、自分の足を地に着けたままではいられないほどに神に近い存在である。
そこにおいて自我なきセラピストは、援助を必要としている者たちを通して助けることができる。
というのは、そのようにして彼は、救済のために確立された計画を遂行するからである。
サイコセラピストは、自我なきセラピストの患者となって、他の患者たちを通して働きながらも、自我なきセラピストがキリストの心から受け取る想念を表現する者となる。