【奇跡講座】の気づきメモ ~Humming~

「欠乏」の夢から目覚めると、「愛」そのものがわたしたちでした。

反応を見張る必要もなくなる(W レッスン154)

「ゆるし」を受け入れるだけが唯一の役割だということを受け入れるのに抵抗がありましたが、私がこれまで体験してきたすべてに対しての「ゆるし」が、天国において割り振られている役割だということが、どう考えても一番自然なことでした。

 

「なぜこんな人生を過ごさなければならなかったの?」と悔やんで憎悪してきて、それで、この後悔や憎悪を持っているのが苦しくて、必死に自分の過去を癒してきたけど、

その癒しが「個人」を温存するためであれば、後悔や憎悪をより強化して、ただそこにペンキか何かで上から塗って隠しているだけなのです。

そのうち、ペンキはまた剥がれてきて、露になってくるのです。

 

そもそも「個人」ではなかった、ということ。

そしてそのことに氣づくためには、割り振られている「個人」の人生を誤魔化さずに全部露にして、その登場人物、出来事すべてを表に出して、光を当てて、抱きしめて、愛で満たして、聖霊に差し出していく。

 

こうして無条件にただ全部を受け入れれば受け入れるほど、抑圧してきた感覚を感じて解放すればするほど、内側に力が蘇ってきます。

 

この訂正のひとときの深まりが「ひとつ」という我が家に到達します。

 

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ワークブック

レッスン154

 

私は神の司牧者のひとりである。

 

自分の価値を判断することは私たちの役目ではなく、私たちには、自分にとってどういう役割が最適なのかを知ることもできない。

より大きな計画において自分に何ができるのか、その全容は私たちには見えない。

私たちの役割は、地獄においてではなく、天国において割り振られている。

そして自分では弱さだと思っているものが強さであったり、自分の強さだと信じているものがしばしば傲慢さであったりする。

(1:5~7)

あなたに与えられた役割がどのようなものであっても、それは神を代弁する声が選択したのであり、その声にはまた、あなたを代弁する機能もある。

聖霊はあなたの強さをありのままに見ており、それがいつ、どこで、何のために、誰に対して用いられるのが最善であるかも気づいているので、あなたにかわって役割を選択し、受け入れる。

聖霊はあなた自身の同意がなければ働かない。

しかし聖霊はあなたの本性について欺かれることはなく、あなたの中にある聖霊自身の声だけを聞く。

(2:1~4)

 

聖霊聖霊自身のものである一なる声を聞くことができるので、その聖霊の能力によって、あなたはついに自分自身の中に一なる声があることに氣づく。

そして、その一なる声があなたの機能を定め、それをあなたに伝える。

あなたがそれを理解し、それを果たすために必要なことを行い、そのすべてに成功を収めるための力を、あなたに与える。

ここにおいて神はわが子とつながったのであり、そうして、神の子は自らと神との一致を伝える神の使者となる。

(3:1~3)

 

神を代弁する声を介したこの父と子の合一こそが、救済をこの世界から区別するものである。

世界が従っていない法則を語るのはこの声であり、神が罪なきものとして創造した心の中から罪悪感を消滅させ、あらゆる罪からの救済を約束するのも、この声である。

そうしてその心は、誰が自分を創造したのかについても、その創造主と自分の永遠の融合状態についても、再び自覚するようになる。

(4:1~4)

 

使者は、自分が届けるメッセージを書くことはしない。

また、メッセージを書く者にその権利があるのかを疑うこともなければ、メッセージの受取人が選ばれた理由を問うこともしない。

ただメッセージを受け入れ、意図された相手に渡し、配達という自分の役目を果たすだけで充分とする。

もし彼が自分でメッセージの内容や目的や宛先を決めるとしたら、彼は神の言葉をもたらす者としての正しい役割を果たせてはいない。

(5:1~4)

 

天国の使者の役割には、この世界が任ずる使者の役割とは一線を画す大きな違いがある。

彼らが運ぶメッセージは、まず最初に彼ら自身に宛てられている。

そして、そのメッセージを自分が受け入れることができたときにのみ、彼らは自分にとどまらず、もっと先にまでそれを運んでいき、意図されたあらゆる場所に届けることができるようになる。

(6:1~3)

 

彼らは、自分たちの仕える存在のもつ権威により与えられた役割以外の役割は選択しない。

(7:3)

 

今日、私たちが取り組むのは、この合一を認識することである。

私たちにかわって語る聖霊から自分の心を離しておこうとすることはやめる。

聖霊に耳を傾けるときに私たちに聞こえるのは、自分の声にほかならないからである。

聖霊だけが、私たちに対して語るのと同時に、私たちを代弁して語ることができ、一なる声の中で、神の言葉を得ることと与えることをひとつにし、神を意志を与えることと受け取ることをひとつにすることができる。

(10:1~3)

 

神の贈り物を認識できるように、私たちは聖霊が望むものを聖霊に差し出す練習をする。

聖霊は、私たちを通して語ることができるように、私たちの声を必要としている。

神のメッセージを聖霊が指名した者たちのところに運んでいくために、私たちの手を必要としている。

聖霊が意志する場所へ私たちを連れていき、不幸の中で待っている者たちについに救済がもたらされるように、私たちの足を必要としている。

そして私たちが聖霊の与える贈り物の真の受取人となれるように、聖霊は、神の意志と一つになった私たちの意志を必要としている。

(11:1~5)

 

しかし、次のことだけは確かである。

すなわち、あなたは今後も幾千もの奇跡を受け取り続けるが、それを信じるようになるまでは、神があなたに贈り物を与えつくしていることがわからないし、神がわが子にほんのわずかな祝福さえ拒んだことがないと知ることもないだろう。

あなたが神および神ご自身の子と一体感をもたない限り、このことがあなたにとってどんな意味をもちえるだろうか。

(12:3~4)

 

私たちが心に明かりを灯し、この神聖な言葉が真実であることを悟るとき、世界は退く。

これが今日、創造主から私たちに送られているメッセージである。

この言葉が、自分自身と自分の機能について、どれだけ私たちの心を変えたかを、これから私たちは実証する。

私たちが互いに共有していない意志は一つも受け入れないと証明するとき、創造主からのたくさんの贈り物が私たちの視野にあふれ、両手に飛び込んでくるだろう。

そして、私たちは自分が受け取ったものを認識する。

(14:1~4)

 

これまで長い間防衛で生きてきたから(W レッスン153)

防衛しないでいることが難しい。

 

つい癖で防衛してる。

言わなくていいことを言ったり、

逆に言うことを言わなかったり、

アピールしなくていいことをしたり、

愛想笑いしたり、

逆に控えめにしていたり、

 

これまで、防衛で生きてき過ぎて、いつの間にか、防衛してる。

 

もうわからん、ってなる。

 

でも、わからんでいいのだ。

 

コース学んで、防衛に気づいていけるようになっても、つい、緊張している。

 

だけど、幻想をいくら防衛しても幻想。

 

だから、反省ではなく、全部聖霊に差し出す。

 

全部神様にお任せする!

 

神様以上の結果はないのだから。

 

ワークブック

レッスン153

 

防衛しないことの中に、私の安全がある。

 

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防衛の姿勢によって、自分が神の神聖な平安をどのように妨害してきたのか、わかっていない。

(5:4)

 

防衛しないことは強さである。

(6:1)

 

あなたが戦っている相手が幻想である今、幻想以外の何があなたを防衛できるだろうか。

(7:4)

 

神の司牧者の機能は、兄弟が自分たちと同じ選択ができるように助けることである。

神はすべての者を選んでいるが、神の意志は自分自身の意志でもあると悟った者はわずかしかいない。

そしてあなたが学んだことを教えることができずにいる間は、救済は待ち続け、世界は陰鬱な闇に幽閉されたままである。

(11:1〜3)

 

あなたは自分の父から見捨てられて、望みを失ったというゲームをしてきた。

罪と罪悪感で気が狂っている恐ろしい世界で、たったひとりで恐怖に震える訳を演じてきたあなたは、今、幸せになりなさい。

そのゲームは終わっている。

今や、静かな時間が訪れた。

罪悪感という玩具を片づけ、一なる神の子である天国の子供たちの清らかで神聖な心から、子供じみたおかしな罪の概念を一掃する時である。

(13:1.2.3)

 

あなたの心の本来の目的から逸らさないために、これからの練習には、愛から生じる熱意が必要となってくる。

恐れることはない。

また、臆病になってもいけない。

あなたが最後のゴールに到達することに疑いの余地はない。

神の司牧者たちからすべての兄弟に向かって輝く愛と力と平安は、神からもたらされるのだから、彼らが失敗することはありえない。

これらが神からあなたへの贈り物である。

その返礼としてあなたが神に差し出すべきものは、防衛しない態度だけである。

あなたがキリストとその無罪性を見るために放棄するのは、一度も実在したことのないものだけである。

(20:1〜7)

(W レッスン152)

神の子だ、という決断だけでいい。

処理できなくて溺れてしまうほどの「愛」を処理しようとしなくてもいい。

自我としてなにかしようとしそうになったら、目を瞑りただ愛に溶け込むだけ。

 

まるで全く抵抗しなければ水にぽっかりと浮くような・・・。

 

抵抗しない。

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ワークブック

レッスン152

 

決断の力は私にある。

 

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あなたの身に起こることで、あなたの願望を表していないものは一つもなく、あなたが選んだもので、そこから省かれるものは一つもない。

(1:5)

 

あなたが実在するすべてという贈り物をもらっているなら、損失というものが実在できるだろうか。(2:3)

 

救済とは、「真理は真理であり、それ以外に真実なるものはない」という認識である。

(3:1)

 

神があなたを創造した通りに、あなたは不変であり続ける。

移り変わる状態というものは、言葉の定義からして当然、虚偽を意味する。

気持ちの移り変わりのすべて、肉体と心の変化、自覚や反応における変化のすべてが、それにあてはまる。

これが真理の全的包括性であり、それが真理を虚偽から切り離し、偽りを真理から分離させておき、真理を真理たらしめる。

(5:1.2.3)

 

一日を通して、辛抱強く神を待ちなさい。

一日のはじめに用いたのと同じ言葉で一時間ごとに神を招き、一日の終わりにも同じようにする。

神を代弁する声が答えてくれるだろう。

聖霊はあなたとあなたの父のために語るからである。

聖霊は、あなたのめまぐるしい思考をすべて神の平安に入れ替え、自己欺瞞を神の真理に、そしてあなた自身についてのあなたの幻想を神の子に、入れ替えてくれるだろう。

(12:1~3)

(W レッスン151)

マインドではなくハートが本性。

目についている自我の世界を看過する。

 

氣づきや体感した真理に、微妙に控え目になったり、どうせわかってくれないとか、どうせ誰も求めてないとか、どうせ抵抗されて自分がしんどくなるとか、そんなことはまったく重要ではない。

 

聖霊にゆだねよう。

自我(頭)を看過し、素直に聖霊に頼ろう。

 

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ワークブック

レッスン151

 

すべてのものごとは、神を代弁する声のこだまである。

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父と子の栄光を知る聖霊にとって、肉体にどんな意味があるというのだろう。

自我のどのような囁きが、聖霊に聞こえるだろう。

あなたの罪が実在すると、聖霊に納得させることなどできるだろうか。

この世界の中であなたの身にふりかかるように見えるすべてのことについても、聖霊に判事となってもらいなさい。

聖霊の教えるレッスンにより、あなたは幻想と真理との間の隔たりと埋めることができるようになるだろう。

(9:3~7)

 

苦痛、災難、苦しみ、損失などが確かに存在すると思ってきたあなたの信念のすべてを、聖霊は取り除いてくれるだろう。

こうした陰鬱な外観を看過し、それらすべての中にキリストの優しい顔を見ることができる心眼を、聖霊はあなたに与える。

神に愛されているあなたには善きことだけが訪れるということを、あなたはもはや疑わなくなるだろう。

聖霊がすべての出来事を正しく判断し、それらすべてに含まれている唯一のレッスンを教えてくれるからである。

(10:1~3)

 

聖霊はそれらの出来事の中で真理を表している要素だけを選択し、無意味な夢を反映する部分は気にかけない。

そして聖霊は、あなたが見ているすべてのものを解釈し直す。

完全に統一された確実な一つの判断基準に基づいて、あらゆる出来事、あらゆる状況、あなたに影響を与えるように見えるどんな出来事をも、解釈し直してくれる。

そうしてあなたは、憎しみを超えたところに愛を、変化の中に不変性を、罪の中に清きものを、世界の上に天国の祝福のみを、見るようになる。

(11:1~3)

 

これがあなたの復活である。あなたの生命は、あなたの目に見えるいかなるものの一部でもないからである。

それは肉体とこの世界を超えたところにある。

神聖でないものを証言するあらゆる証人を超え、聖なる存在の中にあり、聖なる存在自身と同じく神聖である。

聖霊の声は、すべての人とすべてのものの中であなたの自己と創造主のことだけを、あなたに語るだろう。

そして、あなたの自己と創造主はひとつのものである。

そのようにして、あなたはすべての者の中にキリストを見るだろう。

そしてすべてのものごとの中に、神の声のこだまだけを聞くだろう。

(12:1~4)

 

今日は、神とともに過ごす時間のはじまりだけは別として、言葉は使わずに練習する。

練習の時間は、今日の主題概念をゆっくりと一度だけ繰り返すことから始める。

続いて、自分の考えを注視し、それらの中の真理の要素を見ている聖霊に、無言で訴える。

心に浮かぶ考えの一つひとつを、聖霊に評価してもらいなさい。

そして、そこから夢の要素を取り除き、神の意志と矛盾しない清浄な想念に返してもらいなさい。

(13:1~4)

 

聖霊にあなたの考えを渡せば、聖霊はそれらを奇跡に変えてあなたに返してくれる。

その奇跡は、神の永遠の愛の証として、神が神の子に与えようと意志する全一性と幸福を喜んで宣言する。

そうして変容するたびに、それぞれの考えは、その中に真理を見ていた一なる心からやってくる癒しの力を帯びるようになる。

その心は、誤ってつけ加えられていたものに欺かれることはなかった。

空想をつむいでいた糸はすべて消え去っている。

そして後に残ったものは一つの完璧な想念へと統合され、その想念があらゆるところにその完璧さをゆき渡らせる。

(14:1~4)

 

朝、目が覚めたときに、こうして十五分を過ごし、夜、就寝前にもう一度、同じように十五分を喜んで捧げよう。

あなたの考えのすべてが清められたとき、あなたの司牧の職務が始まる。

そのようにしてあなたは教えを受け、神の子が自分自身の聖性を学ぶ聖なるレッスンを教えるようになる。

神を代弁する声が神の子を讃えるのをあなたが聞くとき、誰もがそれに耳を傾けずにはいられない。

そして、その声があなたの心の中で解釈しなおした考えを、誰もがあなたと共有するだろう。

(15:1~5)

 

これがあなたの復活の時である。

だから、あなたの罪と死の証人のかわりに、純白の百合の花をこの世界への贈り物とする。

あなたの変容を通して世界は贖われ、喜んで罪悪感から解放される。

私たちに正気を取り戻してくれた聖霊に感謝し、喜びのうちに、私たちは今、復活した心を天に向ける。

(16:1~4)

 

そして私たちは、救済と解放そのものである聖霊を、一時間ごとに思い出す。

私たちが感謝を捧げるとき、世界は私たちとひとつになり、私たちの神聖な考えを快く受け入れる。

それは天国により正されて清らかになった考えである。

こうして、ついに私たちの司牧の職務が始まった。

真理の中に幻想はなく、神の平安は私たちを通して誰にでも属しているという喜ばしい知らせを、私たちは世界中に運んでいく。

(17:1~3)

全部私、全部私たち(W レッスン150)

私たちは、神により神と同質のものとして創造されたときに与えられた智識を失ってはいない。

すべての心はひとつのものとして創造されているので、私たちはその智識をすべての人のために思い出すことができる。

そして、私たちの記憶の中には、兄弟たちが真実にはどんなに愛おしい存在であるかを思い出させるものがある。

すべての心がどれほど私たちの一部をなすものであるか、彼らが私たちに対しどれほど誠実であったか、そして父の愛がいかにして彼ら全員を包含しているか、といったことが、私たちの心によみがえってくるだろう。

(レッスン139 11:4~6)

 

すべての被造物について感謝しつつ、創造主の名と、神の被造物の全側面との一体性の名において、今日は一時間に一度、私たちの目標に貢献する言葉を繰り返す。

そのとき私たちは、神聖な目的から気持を逸らすあらゆる雑念を脇に置く。

数分の間あなたの心を空にするために、世界が聖なる神の子の周りにくもの巣のように張りめぐらせている妄想を一掃しなさい。

そして次のように言いながら、あなた自身についての智識を自覚させないようにしているかに見える鎖がどんなに脆いものかを学びなさい。

(レッスン139 12:1~3)

 

そこに程度の差は存在しない。

また、実在していないものが、ある形よりもほかの形において真実であると信じる信念もない。

それらすべてが偽りであって真実ではないからこそ、治療が可能となるのである。

(レッスン140 9:4.5)

 

・・・・・

今朝は大雨と強風。

 

そして、このワークをしながら、氣づく。

大雨も強風も私だったのだ。

昨日会った人も、すれ違った知らない人も、憧れていたあの人も、一緒に住んでいる夫も、離れて暮らしている家族たちも、私なのだった。

 

何もわかれていない、ひとつのもの。

 

離れてなどいない。

思いわずらっている時は、それがわかれている夢を見ているだけなのだ。

心が散り散りになってるときは、文字通り、分離の夢をみているだけなのだ。

 

そんな時は静かになるだけ。

何とも誰とも離れていない。

 

ひとつだったよ。

 

今、雨とひとつになってみた、強風ともひとつになってみた。

 

喜びがわいた。

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ワークブック

復習

レッスン150

 

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

 

(139) わたしは自分自身に贖罪を受け入れる。

(140) 救済だけが治療をもたらすと言える。

 

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人は眠っているか目覚めているかのどちらかである。その中間はない。

(140 2:6)

意欲(W レッスン149)

「奇跡講座」は「神の子」への自覚を取り戻させてくれた。

見ていた混乱と矛盾と恐ろしい世界から、目を離しても何の問題もないということを辛抱強く無理強いすることなく伝え続けてくれた。

怖がっているときも、ずっとじっと待っていてくれた。

大丈夫だという自覚を育ててくれた。

「僕にできたことは皆できる」と一切の迷いのない確かさで伝えてくれた。

【真理は学ばれるものではなく、認識されるだけである。】

 

「神の子」であり、「愛」そのものであることの自覚だけが求められている。

 

この事実に心を置き続ける。

肉体はそれを表す手段として使われるもので、肉体があってもなくても、それは可能なのだ。

だから、もう何も思い煩う必要はない。

思い煩ったら、すぐさま、その緊張感を聖霊に差し出す。

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ワークブック

復習

レッスン149

 

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

 

(137) 私が癒されるとき、私ひとりが癒されるのではない。

(138) 天国は私が下すべき決断である。

防衛と緊張はセット(W レッスン148)

ずっと緊張していただけだったんだなぁ~。

思考を張り巡らせて、計算ばかり。

「防衛」のために五感を使うから、結局「見る」ところも緊張を生じされるところばかりを見ている。

そしてだからこそさらに緊張する。

緊張していると、単純に苦しい。

身体はこわばるし、呼吸は浅いし、縮こまってる。

ますます、人も世の中も敵に見える。

「自分、自分」という防衛や、「分離ゆえ生じている問題」で頭はいっぱいで、話は入ってこない。

だから「今」を味わえない。

不満や不足を追いかける。

楽しくない。

 

「緊張」に氣づいたら、全部感じてゆだねる。

 

これだけでいい。

外側の問題には触れなくてもよいってことが腑に落ちていく。

・・・・・

ワークブック

復習

レッスン148

 

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

 

(135) 自分を防衛するなら、私は攻撃される。

(136) 病気は真理に対する防衛である。